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地政学はなぜ批判されるのか?—古典理論を中心に―

地政学、流行ってますよね。
書店にはだいたいどこでも地政学の本が置いてありますし、Youtubeでも解説動画がたくさんUPされています。

地政学とは、「国の政策を、主として風土・環境などの地理的角度から研究する学問」(日本国語大辞典)とされます。地理学と政治学を組み合わせたもの、という説明がされることもありますね。「地理が分かれば国際情勢が分かる!」という点が地政学の魅力としてよく語られます。

しかし一方で、地政学に対する批判も、(世間的な影響はともかく学術方面では)根強くあります。

「まあそうだよね」と思う人は、この記事は特に読まなくても大丈夫です。それほど目新しいことは書いていません。
この記事は、「あれ、地政学って面白そうなのになんで批判されてるの?」と思った人を想定読者としています。

いったい、地政学のどういうところが批判されてきたのでしょうか。今回はそれを解説していきます。


注意点

書いているうちにどんどん長くなり、参考文献をあわせればとうとう1万字を超えてしまいました。時間に余裕のあるときに読んでもらえればと思います。

今回紹介する批判点は、地政学のなかでも古典的な理論に対しての批判がほとんどである点にご注意ください。現代の地政学の展開については、私は十分に追えていません。しかし、書店には古典的な理論の紹介だけをする本もまだまだ多く並んでいることを考えると、そこに絞った批判もまだ意味はあると考えています。

今回の記事では、おおよそ第二次世界大戦終戦までに提唱された理論を「古典理論」として批判の対象にします。本記事では、現在世間に出回っている地政学本の多くが参照しているマッキンダーの理論を古典理論の典型として考えています。

ランドパワーシーパワーリムランドといった用語はご存知でしょうか?もしこれらの用語を聞いたことがない場合、今回の記事は読んでもあまりピンとこないかもしれません。地政学の古典理論については、すでに多くの解説があります。

地政学とは?専門家が教える国際情勢を理解するためのキーワード | 未来想像WEBマガジン
たとえばこちらの記事は、私が批判対象として想定している「地政学」の内容が簡潔にまとめられています。

また、以下の記事でも古典理論について解説しています。適宜ご参照ください。だいたいは知っているという方は、そのまま読んでいただいて大丈夫です。

前置きが長くなりました。それでは本論に入ります。
地政学への批判はさまざまな観点からなされていますが、今回はそれらの批判点を、①制度②方法論③価値観という3つの視点で整理してみます。

1. 制度に対する批判

まずは、シンプルな批判点から挙げていきましょう。地政学に対する批判として端的なのは、「学問としての制度が整っていない」というものです。
日本で地政学を自らの専門として挙げる数少ない人物の一人である奥山真司氏は、以下のように述べています。

地政学は「学」とついていますが、「経済学」や「社会学」のように体系的に確立された学問ではなく、世界を理解するための「概念」や「視点」、「アプローチ」です。

地政学とは?専門家が教える国際情勢を理解するためのキーワード | 未来想像WEBマガジン
※正確には奥山氏の見解を別のライターがまとめたもの

地政学に関する本を精力的に執筆する人物ですらこのように言うくらいですから、制度的な弱さは地政学を支持する立場の人にとってもおおむね同意してもらえるのではないかと思います。

なお、この項目で述べる批判点は基本的に日本の地政学を前提としたものです。海外では、また状況が違うのかもしれません。しかし、仮に海外で地政学が学問的に研究されていたとしても、日本ではその動向を取り入れるシステムが確立されていないことには変わりありません。

1-1. 大学における教育システムの不足

現在のところ、「地政学」と名の付く学部・学科は日本には存在しません。この点が、ほかの学問と大きく異なるところです。もちろん、国際関係論や安全保障を扱う学部・学科はありますし、そうした分野ではいわゆる「地政学」的な話も登場するかとは思います。しかし、巷の本で紹介される「ランドパワー/シーパワー」のような、古典的な地政学理論に依拠したカリキュラムが組まれているところは、ほとんど無いと考えています。

例外として、防衛大学校では地政学が教えられています。総合安全保障研究科(大学院に相当)の履修要覧には、「地政学」という科目名こそないものの、「地政学的条件」や「地政学的リスク」といった言葉が多く登場します。しかし、防衛大は自衛隊の幹部自衛官を養成する機関であり、一般的な大学(学校教育法第1条に規定される「大学」)とは異なります。

このように、少なくとも日本に限っては、地政学は大学というシステムの中に十分に組み込まれているとは言えないのが実情です。

1-2. 研究を遂行し、公表するシステムの弱さ

大学内での位置づけが弱いということは、大学に籍をおいて「地政学者」として研究成果を出す研究者も当然存在しづらくなります。なんらかの学会に所属し、学術雑誌に投稿する、というのが一般的な研究者のあり方ですが、地政学の場合はそうしたシステムが十分に整っていないとされます。

念のため挙げておくと、国際地政学研究所というNPO法人は存在します。また、戦略研究学会という学会が発行する機関誌『戦略研究』や防衛省のシンクタンクである防衛研究所の成果には、地政学的なものも含まれています。しかし、その規模は小さく、後二者もあくまで戦略研究や安全保障・戦史研究という枠組みの組織です。また、その成果も研究というよりは意見書・政策提言的なものが多く含まれています。

こうした状況を考えると、地政学の研究は、まったく無いとは言えないまでも、ほかの一般的な学問と同列に語るのは難しいと言えます。

1-3. 一般書を中心とした普及

ここまで挙げた1-1、1-2の帰結として、「地政学」として世間に流通する書籍の多くが、学術的な正確性を十分に考慮せずに書かれたものとなっています。

「ポップ地政学」本の掲載地図批判:主に高校地理レベルでの内容の誤りについて

例えば、↑のスライドでは「ポップ地政学」と総称される一般書に掲載されている地図に、初歩的な誤りが多く含まれているという指摘がなされています。「地図がゴミ」「放っておけば勝手に自滅する」といった言葉でポップ地政学を批判するこのスライドは、ツイッターでも何度かバズっています。

たしかにひどい地図が多いなあとは思うものの、批判の仕方にかなりトゲがあり、これが地政学批判の代表と思われるのは正直言って嫌な部分もあります。また、地図の初歩的な誤りに関して言えば義務教育の教科書にも散見されるため、地政学だからこその瑕疵とは言えません。

参考:中学校社会科歴史的・公民的分野教科書の掲載地図にみられる初歩的な誤りに関する報告(ポップ地政学批判と同じ方による学会発表要旨)

地政学について批判をするのであれば、もう少し内容自体についての批判も必要だろう。そう思ったのがこの記事を書いたきっかけの一つです。

2. 方法論に対する批判

ということで、内容への批判を見ていきましょう。古典的な地政学に対しては、それが学問的な方法に則っていないという批判が絶えずなされてきました。

2-1. 古典理論への過度な依拠

地政学は、20世紀初頭に登場したような古典的な理論を、現代にも当てはめようとする傾向があります。1世紀以上も前にマハンやマッキンダーが提唱した「ランドパワー/シーパワー」という図式は、現在でも地政学の基礎として持ち上げられています。

地理的な条件を重視するということは、それさえ変わらなければ、古い理論でも適用できる、という論理でしょうか。しかし、古典理論ができた当初と現在では、戦争のあり方も、倫理観も、なんなら地理的条件も変化しています。にもかかわらず、なぜ古典が持ち出されるのか。古川浩司氏(中京大学)による指摘が分かりやすいので引用します。

スパイクマンやマハンが繰り返し出て来るのは、国際関係論で(覇権国と新興国が折り合えないまま戦争に至ってしまう現象をアテネとスパルタの関係から演繹した)「トゥキディデスの罠」が今でも必ず語られるのと似ていますね。学問的な体裁を整えようとするとき安易なやり方として、「昔からそうだった」「人間はあまり変わらない」といった前提に依拠しようとする傾向があるからかもしれません。例えば、地政学でも隣国とはそもそも仲が悪いものとかそういったステレオタイプから始まります。学問的ではない話ですが、地政学では昔からそう言われているとかいって、スパイクマンの名前を入れると説得的に思われますので、権威づけみたいなこともあるのでしょうかね。

「地政学ルネサンスを超えて─ 地理学と政治学の対話
─ラウンドテーブル~『現代地政学事典』(丸善、2020年)」

『境界研究』第11号, 2021年, 68頁

2-2. 用語のあいまいさ

地政学で用いられる用語は厳密な定義がなされず、あいまいに用いられる傾向があります。例として、地政学の本でもよく紹介される「シーパワー」という用語を見てみましょう。この概念の提唱者であるマハンは、シーパワーを以下のように定義しています。

武力によって海洋ないしはその一部を支配する海上の軍事力のみならず、平和的な通商および海運をも含む。

アルフレッド・セイヤー・マハン(北村謙一訳)
『マハン海上権力史論(新装版)』原書房, 2008年, 46頁

この時点で、かなり意味が広いことが分かります。シーパワーは軍事力だけを指すのではありません。海に関わる力全般を指すと言ってもよいでしょう。この概念をもとに、マッキンダーは「シーパワーとランドパワーは両立しない」、「海洋国家と大陸国家は対立する」といった考えを提唱します。

巷で地政学が持ち上げられるときには、いまだにランドパワー/シーパワーですべてを説明しようとする傾向が見られます。しかし、すべての国がランドパワーかシーパワーかのどちらかに振り分けられるはずがなく、中間的な性格を持った国もあります。すると、なんとか陸/海の構図に落とし込もうと修正的な説明がなされます。

たとえば、『サクッっとわかるビジネス教養 地政学』という本では、地政学的に見ると日本は「①ランドパワー→②シー&ランドパワー→③シーパワー」と変遷してきたとされます。また、伝統的にはランドパワーであった中国は、近年シーパワーも取り込もうとしているとされます。

このようにして、ただでさえ広い古典理論の意味合いがどんどんと拡張されていきます。もともとの定義が広い以上、ある国がランドパワーかシーパワーかは、恣意的に決められてしまいます。実際、『地政学原論』というどちらかと言えば地政学を擁護する立場の本においても、「残念ながら、地政学者としてのマハンの発想や概念は、今日ではほぼ陳腐化している」(p.153)との評価がなされています(戦略思想家としては評価がされていますが)。

使いつぶされた用語は、意味が拡散し、厳密な議論には耐えられないものになっていきます。もちろん、地政学においても時代ごとに新たな用語は提唱されています。例えば、エアパワーやスペースパワーなどたくさん○○パワーという用語があります。しかし、それらも根本的には「シーパワー」と同じ問題を抱えているように思います。

これは、地政学が学問として制度的に整っていないことと無関係ではないと思います。新しく理論を精緻化する試みが十分になされなかった結果、古い理論を未だに使うしかない。厳密な議論をする場に乏しいので、理論を再検討する機会がない。そういう状況があるのではないでしょうか。

2-3. 「地政学」という語のあいまいさ

地政学のあいまいさは用いられる言葉だけでなく、「地政学」という名前自体にも当てはまります。地理的条件から国際政治を分析する視点を指すこともあれば、分析される国際情勢そのものが「地政学」と呼ばれることもあります。「地政学的リスク」といった用法は後者です。最近では、国際政治に関係していれば、特に地理的条件が関わっていなくても「地政学」と呼ばれる傾向すらあるように思います。

また、「地政学」という概念は国際政治以外の文脈でも用いられます。例えば、冒頭でも少し触れた奥山真司氏は、静岡県のリニア中央新幹線の工事問題に、以下のようなコメントをしています。

バイパスができて街を通過されると買い物客もいなくなってしまう ~リニアができても通過されてしまう静岡
奥山)これは通り道の話ですよね。まさに私が研究している古典地政学によく出てくる話です。
飯田)古典地政学に。
奥山)通り道が変わると産業構造が変わるのはよくあることです。1つの街があって、その街の郊外にバイパスができるとします。いままでは街中を通って渋滞になっていたけれど、車が通るのでそこで買い物をしてくれる人がいた。でもバイパスを通されてしまうと、もう車で通らなくなってしまうのです。

県知事がリニア中央新幹線工事に難色を示す「静岡の事情」(ニッポン放送) - Yahoo!ニュース

交通が変わると地域構造が変わる、というのは地理ではよく出てくる話ですが、これは「地政学」なのでしょうか。もちろん地理と政治の双方が関わっている話ですし、広い意味で言えば「地政学」なのかもしれません。しかし、リニア中央新幹線工事という問題について専門家の意見を求めるのであれば、「地政学」よりも適切な分野はいくらでもあるのではないでしょうか。

2-4. 地理的条件への偏重

地政学は地理的条件を過度に強調する傾向があります。いわゆる環境決定論です。より通俗的な地政学ほど、その傾向は強くなります。

・地図を逆さにするだけでこんなにいろんなことがわかる
・日本のとるべき針路の答えは、地図にある!

これらは、1-3で紹介したスライドで批判されている「ポップ地政学」の本の宣伝文句として使われているフレーズです。地図を見れば世界情勢が分かる、という明快さが地政学の魅力であるようです。

たしかに、政治や経済を考えうえで地理的条件を踏まえる重要性はよく分かります。地理的条件は政治や経済と比べると概して変化のスピードがゆるやかであるため、考察の条件として使いやすいのも分かります。しかし、それだけですべて説明するのは無茶です。

例えば、マッキンダーの理論では、ランドパワーとシーパワーは対立する運命にある、とされます。しかし、海/陸という地理的な二項対立を、そのまま陣営の違いに当てはめられるわけはありません。地理的な条件が陣営を決めるのであれば、時代を問わず対立する国の面々は同じになるはずです。

当然ながら、実際はそうではありません。「シーパワー/ランドパワー」論は、英米/独露というごく限られた国々の対立を説明したにすぎず、そこから、海だからこう、陸だからこう、という一般的な法則を確立できるわけではありません。

もちろん、そんなことは地政学を論じる人も理解しているはずです。例えば、リムランド理論を提唱したスパイクマンは、「地理的条件は変わる事はない。しかし外交政策におけるその意味合いは変化しうる」と言っています。以下の記事では、古典的な地政学理論も、それ自体は言われているほど環境決定論的ではないという指摘がされています。

地政学は単純な環境決定論ではなく、国家の盛衰は地理だけでは説明できない|武内和人|戦争、社会、人間を学ぶ

しかし、「ポップ地政学」本において議論が単純化されて普及していくと、古典理論でさえも留意していた点が忘れられ、決定論的な語りが強くなっていきます。

2-5. 国家中心主義

地政学の議論は、国家のみを主体として世界情勢を捉える傾向があります。そこには、いくつかの問題があります。

一つは、国家をまたぐような主体が見落とされがちだという点です。19世紀末から20世紀初頭という、いわば国民国家の最盛期を前提として提唱された古典理論は、国家を中心に物事を考える傾向があります。しかし、現代の国際情勢のアクターは国家だけではありません。多国籍企業や移民のように、国家の枠をこえた主体も政治を動かします。

また、ある国があたかも統一された意志のもと動いているかのように見えてしまうという問題点もあります。国家だけを主体とした語りは、国家をこえた主体だけでなく、国家のなかの多様性も見落としてしまいがちです。国家を擬人化した解説は分かりやすいですが、実際の国家はそこまで一枚岩ではありません。政府のなかにもさまざまな見解がありますし、国民もまた違った考えを持っています。

地理的条件という点で言えば、地政学における地図の描かれ方にも問題があります。地政学では世界地図を使った説明がよくされますが、国家だけに着目した語りでは、国境線で囲まれた領域がまるですべて統一された均質な空間かのように見えてしまいます。しかし実際は、一つの国のなかでも場所によってさまざまな地域性があります。日本国内であれば当たり前に理解できるこの前提ですが、遠い国のことを語る際にはつい見落とされがちです。

3. 価値観に対する批判

ここまで、制度的側面と方法論に着目して地政学の問題を紹介してきました。しかし、地政学にはより根本的な問題も指摘されています。それは、地政学が立脚する世界観・価値観についての問題です。先に述べた環境決定論や国家中心主義も、場合によってはこちらに含められるかもしれません。

3-1. 植民地主義への加担

地政学は、植民地支配に加担してきた過去があります。国が領土を広げるのは当然である。地理的条件から言えば、この土地は我が国の領土になってしかるべきである。それを邪魔する国は脅威であり、排除しなければいけない。古典的な地政学は、こうした世界観を背景として登場しました。

もちろん、現在では地政学のそうした性格はかつてより薄れてはいます。しかし、根底の世界観はそれほど変わってはいません。古典理論に依拠して語る限り、それは避けられないと思います。

以下、古典的な地政学の背景にあり、現在も残っている価値観を、性悪説・善悪二元論・運命論という3つのワードで説明してみたいと思います。

3-2. 性悪説的な考え方

地政学は、国家と国家の闘争を当然と見なす傾向があります。国家は覇権を目指すもの、という性向を自明視しているとも言えます。帝国主義の時代に成立した古典理論は、なおさらその傾向を持っています。

一方で、これまでの国際政治は闘争だけではなく協調によっても動かされてきました。国連やEU、非政府組織など、国家間や国家の枠に捉われない活動が世界にもたらした成果は無視できません。

もちろん、それらの動きは協調に見えて、実は自陣営への利益誘導にすぎない、と見ることも可能です。しかし、そうした水面下での駆け引きは、戦争という露骨な対立とはまた別の枠組みで検討されるべきではないでしょうか。

ただし、現在の世界情勢を見ていると、協調よりも対立に着目する考えが説得力を増しているのは否定しがたいなとも思います。しかし、そうした状況下にあっても、地政学を適用することにはなお問題があります。

国際協調がまだ進んでいなかった時代の地政学理論をそのまま現代に当てはめると、必要以上に対立をあおることになります。すると、本来ならできたはずの協調、それも双方が得をするwin-winの関係すら結ぶ機会を逃してしまうのではないでしょうか。地政学はときに特定の国に有利な状況をもたらすかもしれませんが、「誰も得しない」状況を招いてしまうこともあると思います。

3-3. 善悪二元論的な世界観

地政学は、敵/味方をはっきりと分けて危機をあおる傾向があります。これは2-5の国家中心主義と組み合わさり、自国中心主義となります。
先ほど性悪説の問題を指摘しましたが、地政学の場合、性悪説的な原理が適用されるのはもっぱら「仮想敵国」の行動に対してであることが多く、自国のふるまいに対しては無自覚であることもしばしばです。

マッキンダーはシーパワー/ランドパワーという対立構造を強調しましたが、これは明らかにロシアの台頭を意識したものです。マッキンダーやそれを引きついだスパイクマンが論じたシーパワー/ランドパワーの対立は、「自由主義国家/覇権主義国家」という色彩を強く帯びています。「こちら側」と「あちら側」と言ってもいいかもしれません。

ここから分かるのは、地政学は客観的な法則を説明したものではなく、どちらかの陣営に立って、自陣営の戦略をいかに補強するかを目的としたものであるということです。すなわち、国の数だけそれぞれの「地政学」があります。そうした性格を持った地政学は、「学」ではなく「地政“戦略”」と呼ぶべきではないかという指摘もあります。

3-4. 「そうなるのは仕方ない」という運命論

地政学は、地理という変化のゆるやかな条件によって政治を説明しようとします。地理的条件を強調しすぎると、2-4で述べたような環境決定論に陥ります。決定論は、「それはもともと決まっていたことだ」という諦めにもつながります。

例えば、ユーラシア大陸の中枢部である「ハートランド」を取り囲む領域は「リムランド」と呼ばれ、そこではランドパワーとシーパワーが対立するとされます。たしかに、リムランドでは現在も紛争が多発しています。

しかし、そうした説明は「リムランドだから紛争が起こるのは当然」という思考につながりはしないでしょうか。立地が紛争の要因になっているからといって、大陸や国の配置を変えることはできません。「AだからBになる」という理論が問題解決の役に立つのは、Aを変えられるときだけです。

もしかすると、Bの背景には、Aだけではなく別の要因Cがあるかもしれません。変わらない条件Aを強調することは、もしかすると変えられるかもしれない別の要因Cを見落とすことにつながります。

おわりに

ここまで挙げた論点をまとめると、以下の通りです。

  1. 制度に対する批判
    1-1. 大学における教育システムの不足
    1-2. 研究を遂行し、公表するシステムの弱さ
    1-3. 一般書を中心とした普及

  2. 方法論に対する批判
    2-1. 古典理論への過度な依拠
    2-2. 用語のあいまいさ
    2-3. 「地政学」という語のあいまいさ
    2-4. 地理的条件への偏重
    2-5. 国家中心主義

  3. 価値観に対する批判
    3-1. 植民地主義への加担
    3-2. 性悪説的な考え方
    3-3. 善悪二元論的な世界観
    3-4. 「そうなるのは仕方ない」という運命論

地政学はなぜ批判されるのか」という問いに対しては、このようにさまざまな角度から答えることができます。
今回は古典理論に絞って批判をしたため、現代の地政学には当てはまらない部分も多くあるかと思います。しかし冒頭でも述べたように、いまだにもっぱら古典理論に依拠した説明が流布しているのも事実です。取っつきやすい動画や分かりやすい本ほどその傾向は顕著です。

複雑な世界情勢に対して分かりやすい理解を与えてくれる地政学は、たしかに魅力的です。多くの知識を詰め込まなければいけない受験生や、忙しくインプットの時間を十分に取れないビジネスマンにとっては特に、地政学は理解を導いてくれる救世主のように見えるかもしれません。

しかし、この記事で示したように地政学は多くの問題を抱えています。地図による説明は一見説得力があるかもしれませんが、実際にその理解が正しいかどうかはまた別の問題です。地図を見るだけで世界が”客観的に”理解できるのであれば、とっくに世界の紛争は解決しているはずです。今なお紛争が絶えないこの現状は、同じ地図を見ていても、それぞれが持つ世界観・価値観によって違う理解が導かれることの証拠ではないでしょうか。

制度や方法論については、地政学を擁護する立場からみても問題が認識されているようですし、問題を克服する取り組みも行われているはずです。しかし、どれだけ制度・方法論が整っても、基本的な価値観についてはなお問題が残るのではないかと思います。

私の関心は、世間で「地政学」と呼ばれているモノの見方はどういったものであるのか、それがどのような課題を抱えているのか、といったところに偏っています。現実の国際情勢については疎く、また国際政治に関する既存のアカデミックな議論も詳しくありません。今回の記事も、私自身の知識不足ゆえに見当違いなことを書いている可能性は大いにあります。地政学を擁護する立場からでも、あるいはより強く地政学を批判する立場からでも構いませんので、忌憚のない意見をもらえればと思います。

永太郎(Twitter:@Naga_Kyoto

付記

・地政学への批判をみる上では地政学の歴史についての解説が不可欠なのですが、あまりに長くなったため今回の記事では扱いませんでした。地政学史については以下の記事で説明していますので、ご参照ください。

・地政学への批判は、この記事で挙げたもの以外にもさまざまな論点があります。今回の記事は比較的古くから指摘されている論点を中心に紹介しました。世間的には、そうした古い論点ですらもまだ十分に認知されていないと考えたためです。

参考文献

※本来であればどの文献をどの箇所で参照したのかを書くべきですが、余力がなくそこまでできませんでした。すみません。

地政学に批判的な立場からの文献

地政学に対する批判は、主に地理学を中心としてなされてきました。古典的な地政学とは異なる立場から国際政治を考察する「批判地政学」という分野もあります。興味のある方はぜひ調べてみてください。
※「地政学批判」と「批判地政学」は厳密には異なるものであるそうです

『現代地政学事典』編集委員会 編『現代地政学事典』丸善出版, 2020年
 ・・・人文地理学や国際政治学の立場から書かれた事典。古典的な地政学の世界観を乗り越えながら地理×政治の問題を考える方法が書かれている。今回は特に、第3章「伝統地政学の理論と実践を考える」および4章「批判地政学の生成と展開」を参照した。

「地政学ルネサンスを超えて─ 地理学と政治学の対話─ラウンドテーブル~『現代地政学事典』(丸善、2020年)」『境界研究』第11号, 2021年, 55-84頁
 ・・・『現代地政学事典』編集委員による対談。後述する『地政学原論』の問題点や、地理×政治を考えるうえで考慮すべきトピックなどが語られている。

山﨑孝史「境界、領域、「領土の罠」:概念の理解のために」『地理』第61巻第6号, 2016年, 88-96頁
 ・・・地政学が持つ非常に単純化された(地理的)前提を批判している。領土は主権によってすきまなく覆われているわけでも、均質な社会を包んでいるわけでもない。

近藤暁夫「「ポップ地政学」本の掲載地図批判:主に高校地理レベルでの内容の誤りについて」2018年度日本地理学会春季学術大会発表スライド
 ・・・一般に流通する地政学本に掲載されている地図に誤りが多くあることを指摘した発表。発表要旨はこちら

そのほか、気軽に読める地政学批判としては以下の記事も参考になる。
大人が知っておくべき「地政学」についての超基本的な知識 | 独学大全 | ダイヤモンド・オンライン
中田敦彦「沖縄に米軍基地がある理由」解説動画が波紋…専門家が指摘する“断言”の危うさ | 女性自身

地政学を擁護する立場からの文献

ハルフォード・マッキンダー(曽村保信 訳)『マッキンダーの地政学:デモクラシーの理想と現実』原書房, 1985年
 ・・・現在語られる地政学の源流と言える古典。ランドパワー/シーパワーという概念を用いて世界史の構造を説明している。

奥山真司監修『サクッっとわかるビジネス教養 地政学』新星出版社, 2020年
 ・・・地政学の解説本のなかではおそらくかなり読まれている本。本記事では古典理論を用いた説明の典型例として参照した。

庄司潤一郎, 石津朋之『地政学原論』日本経済新聞出版, 2020年
 ・・・地政学を擁護する立場から書かれた教科書。地政学批判の論点をまとめつつ、それでもなお地政学を学問領域として確立させるべきであるという主張がされている。

修正箇所

2-2. 用語のあいまいさ

国家は地理的条件によって規定される、という前提はどこにいったのでしょうか。「時代によってランドパワー/シーパワーは移り変わる」という論は、「実は天気は日によって晴れになったり雨になったりするんですよ」と言っているに過ぎないのではないでしょうか。

→もともと後から追加した記述だったのですが、古典地政学は環境決定論と叩きながら古典地政学が環境決定論でないことを叩くのは矛盾しているなと思い、削除しました。

2-4. 地理的条件への偏重
→「地理的条件は変わる事はない。しかし外交政策におけるその意味合いは変化しうる」というスパイクマンの発言を追加(Twitterにて指摘を受けたため)。


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