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短編小説「なつをとめ」①

正直、彼女のことを僕はよく知らない。何をしている人で、出身はどこで、どんな経歴があって、家族は他にいるのかとか。誕生日と名前、住所は知っているが、基本情報はそのくらいしか思い当たらない。しかしそれらも本当のことではないのかも知れない、と思う時がある。では僕は、一体彼女の何を知っているのだろう。猫が甘える時のように柔らかくのびる甘い声や、ゆったりとした独特のリズムで喋ること。白い肌、口元のほくろ、そう言えば左肩の後ろにもほくろがある。丁寧にまとめられた黒い髪、存在感はあるのに意外と小柄であること、話を聞く時に百合の花が頭を垂れるように首を傾げること、それが得も言われぬほど魅力的なこと、英語が堪能で、うんと若い外国人の恋人がいること。こうして並べてみると予想よりも沢山あった。恋に落ちるには、充分ではないか。

僕がさゆりさんに初めて出会ったのは、彼女の自宅に珈琲を宅配した時だった。僕はこの街でそこそこ繁盛している珈琲喫茶店をやっていて、それはUber Eats導入直前だったと思う。店の「宅配やってます」という貼り紙を見て、電話したのだと彼女は言った。

「Uber Eatsでこちらのお店を探したんだけど見つからなくって、お電話しちゃったの。」

申し訳なさそうなニュアンスを少し含ませた、歳を重ねた女性の声。落ち着きがあるのに、どこかあどけない少女性を感じさせるその声が、心の何処かにひっかかった。その日は偶然にも暇だったし銀行に行く必要もあったので、店は副店長に任せて僕自身が配達することにした。100グラムのコーヒー豆と自家製タルトふたつを準備して、僕は車に乗り込んだ。

続く

ながいけまつこ

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