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映画『夕霧花園』の感想と、作中での日本の描かれ方

「海外作品での日本人のポジションってどうなってるのか、と気になる話です」

 そうコメント頂いたのは、私が「夕霧花園」という映画の感想を述べた時だった。はて、どういう角度から話せばよいものかと考え込むうちに短文では収まりそうになかったので、この場を借りてつらつらと書き綴っていきたいと思う。

映画「夕霧花園」について
 マレーシアの小説「夕霧花園」が原作である。台湾のトム・リン監督がメガホンをとり、主演は香港や台湾などで活躍するマレーシア人女優の李心潔/アンジェリカ・リー、日本を代表する濃い顔俳優・阿部寛。ここまででもう既に、グローバルな(?)作品であることがお分かりいただけるだろうか。
 3つの時間軸を行ったり来たりする、二人の男女の物語だ。メインストーリーとなる時代は、第二次世界大戦後の1950年代。主人公のユンリン(李心潔)は、キャメロンハイランドにいる日本人庭師・中村有朋(阿部寛)に「妹を弔うために日本庭園を造ってほしい」と依頼する。中村は断るが、その代わりユンリンに製作中の庭「夕霧」を手伝わせ、技術を身に着けて自分で作れるようになれと言う。嫌々ながらも手伝うユンリンだが、中村との間に師弟以上の関係性が芽生えはじめる。しかし、1940年代の戦争時のキャンプ地での出来事が、妹の姿とともに時折フラッシュバックするユンリンは、日本人を激しく憎んでおり、相反する気持ちを抱えながら揺れ動く――
そして、時を経て1980年代。ユンリンは再びキャメロンハイランドを訪れ、行方不明の中村の姿を探す。というのが大方のあらすじだ。

感想

 トム・リン監督が「憎しみを乗り越えるのは愛です。それを描きたかった」と語っていた本作品。私にとってはとても悲しい映画だった。
 民間人が戦争に巻き込まれ、穏やかな日常を奪われた、惨たらしい様子がリアルに描かれていることがとても辛かった。私の中にある「戦争のことはそこそこ勉強してきたという驕り」と、「日本が加害側であるという現実の認識の甘さ」を指摘された気がしたからだと思う。学校では割と真面目に勉強してきたし、広島の原爆資料館には何度も行っている。戦争経験者から直接話を聞く機会もあったし、戦争映画も複数見てきた。そこに驕りがあったのだ。私は何もわかっていなかった。ましてや、日本が被害者である視点からしか見ていなかった。経験していないとはいっても、「知識として十分に知っている」と錯覚していたことは本当に恥ずかしい。
 また、私は戦争映画を見る際「どこか遠い国で起こった大惨事、テレビで眺めてる幸せな午後三時」という感覚の中にいたが、本作品では自分ごととして捉えながら見ていたことにも気づいた。本作品は戦場で戦う兵士ではなく、キャンプ地での一般市民の強制労働の様子を描くことで、人々の日常の延長線上にある戦争を表現していて、この点が、他の戦争映画よりも戦争のむごさを自分ごととして捉えることを可能にしたのだと思う。特に、作中の日本兵の振る舞いは非人道的で、本作品はフィクションではあるけれども同じことが現実で沢山起こっていたことは明白で、劇場を出た後私はどういう顔をして表を歩いたらいいのだろうという気持ちになるほど、残酷だった。
 ユンリンは日本人を憎みながらも、日本人である中村と惹かれあう。そんなユンリンが日本人への憎しみを乗り越えるのは、中村への恋心ではない。そんなチープな越境恋愛物語ではない。ユンリンと妹との姉妹愛や、妹が日本人に虐げられながらも日本庭園を愛する気持ち、中村がユンリンを愛する気持ち、戦犯となった日本人たちにも愛する家族がいたこと、愛や憎しみや悲しみが30年という時の中でゆっくりと変化し、それはまるで海に放り出されたガラス瓶の鋭い破片が角が取れ美しいシーガラスに変化するように、憎しみを昇華しながら前に進んでいく姿を、地に足をつけてしっかりと描ききった作品だった。
 もっと評価されてもいい作品だが、先述の描写のため日本で大々的にPRするのは難しいと思う。むしろ、阿部寛さんがこのオファーを受諾されたことがすごいことだと思う。

日本人のポジション

さて、ようやくご質問への回答に辿り着いた。本作品での日本人の描かれ方はどのようなものだったのか。

1.いわゆる日本人が見ても全く違和感のない「日本人らしさ」があった
 他国、あるいは他地域の文化を描くことの難しさは、映画でも小説でも漫画でも一緒だろう。人は誰でも大雑把な色眼鏡をかけている。「アメリカ人は金髪で肌の色が白い」「アフリカといえばマサイ族」「高知の祝い事にはカツオの藁焼き」「京都人は腹黒い」などなど。(注:私は京都出身です)こうした色眼鏡(レッテルや偏見)は時に、作品のリアリティを損なう事につながる。だってそうだろう、アメリカ人にはアフリカ系もアジア系も欧州系もいるし、アフリカにはマサイ族だけが住んでいるのではない。カツオの藁焼きは普通の家ではやらないし、腹黒くない京都人だっているはずだ。それらは「いち個人が抱く雑なカテゴライズ上のイメージ」ではあるが、現実はもっと複雑で、繊細で、多くのディテールが立体的に積み重なっている。厚みのない「ガワだけそれっぽい」を集めた作品は、ただの虚像であり張りぼてに過ぎない。
 しかし本作品は違う。私は日本人だが、スクリーンの中には私たち日本人が存在していた。日本人役でセリフのある人は、おそらく日本人、あるいはネイティブ日本語を話せてネイティブ日本的振る舞いができる人がキャスティングされていた。主要キャストの中村が阿部寛だったことも大きいだろう。彼はほとんどが英語のセリフだったが、日本人英語を話していたことが中村を日本人たらしめていた。本作品のこのリアリティは、ディテールの積み重ねた演出によって表現できたのだと思う。

2.加害側である日本、それは絶対悪なのか
 先述の通り、本作品での日本は「マレーシアの一部地域を侵略し、一般市民を強制労働などの惨い仕打ちをした国」という位置づけである。しかし、単純な「絶対悪」として描いていない、もっと奥行きのある表現をしているところに是非着目してほしい。戦争や政治をテーマにした作品の難しいところは、本当は「正義と悪」という単純構造でないのに、絶対正義にやっつけられる絶対悪という描き方に陥ってしまう事だと私は思う。その方がシンプルで分かりやすく、多くの人に理解してもらいやすい。また、多くのオーディエンスがそういったスカッとする・単純なストーリーをエンターテイメントに求めていることもあって、史実に基づく作品であっても正義vs悪と単純に割り切ってしまうケースが多い。現実は、そんなにシンプルなものではないのに。
 本作品は、主人公のユンリンの視点から語られる物語なので、物語の前半では日本は「憎むべき存在」として描かれる。しかし、作中の日本人たちを「一人の人間」として描くことで、絶対正義と絶対悪で割り切れない複雑さを見事に表現している。例えば、多くのマレーシア人の命を奪った戦犯の日本人が、死刑執行前に愛する家族に手紙を書くシーンがあったり、ユンリンの哀しい過去を受け止め、愛する中村の描写があったり。
 また1950年代の時間軸では、次のポスト絶対悪として反政府ゲリラが登場する。日本軍を倒したとて、次々悪役は登場する人間社会構造の複雑さがきちんと描かれている点も興味深い。
 憎むべき対象は本当に「日本人」なのか?日本人の仕打ちは憎むべきだ。しかし、目の前にいる日本人の中村は?どうして愛してしまったのか。どうして彼は私を愛してくれるのか。

おわりに

 質問者への回答になっていない上に、書き始めると止まらなくなってしまい無駄に長文になったことをお詫び申し上げたい。それほど本作品に心動かされたのだと、自分自身でも驚いている。今年観た映画のマイ・ベスト5に入る作品であることは間違いない。パンフレットを買い損ねてしまったことだけが、心残りである。
 あと、書きそびれたけど、キャメロンハイランドの雄大な自然をとらえた映像美、静かな中に悲しみや恐怖や愛が表現されたサウンドトラックも一級品で、本当に隠れた名作品だと思っている。ぜひ、機会があればご覧いただきたい。

音声配信アプリSpoonでもご紹介中。ぜひお聞きください。

永池マツコの日々シネマチック Vol.059
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ながいけまつこ

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