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人生論 2023

生きる意味とは何か。

「魂の幸福」だ。

魂を燃やし、深い幸福を感じること。
それこそが、生きる意味。
私はそう思う。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると、人類は約7万年前、認知革命により抽象的概念を生みだし、信じる力を得た。

その信じる力から生まれた神話や宗教といった物語は、多くの人々に同じ価値観を持たせることを可能にした。

それにより、集団が同じ価値観を持ち、同じ目標に向かって効率的に協力できるようになり、集団生活を営む社会の原型が生まれた。

その認知革命の後、さらに歴史を大きく動かす、2つの革命が起きた。

約1万2000年前の、農耕により安定的に食料を生産することを目的とした農業革命。
約500年前の、科学法則を分析する事で世界を意のままに動かすことを目的とした科学革命。

そして、それら3つの革命が、今の社会を形作る土台になったという。

ではそれら3つの中で、最も重要なものは何か。

やはり、認知革命と言えるだろう。

なぜなら、認知革命こそが人間とそれ以外の動物を分けた、ターニングポイントだからだ。(チンパンジーと人間の遺伝子は99%同じ。残り1%の違いが、両者を違う生物にしている)

では、その認知革命の本質とは何だろう。何によって、人間は他の動物たちと進む道を分かち、地球の支配者としての道を歩みだしたのか。

その答えは、抽象的思考力だ。

抽象的思考力こそが、概念という目に見えないものを信じて行動するための根源的要素だ。それによって人々は集団で同じ目標に向かって協力することが可能になった。そして、高度な文明や文化、科学などを生み出してきた。

たくさんの人間が同じ目標に集団で協力するためには、抽象的思考力を身に着けることは避けて通れない道だった。

社会がここまで発展してこれたのも、抽象的思考力を基にした集団の協力によるものだ。

資本主義社会として発展している現代の日本も同じ。

全ての人が貨幣の価値を信じる。
そして、自分の得意なものを仕事にする。
そうすることで、貨幣を媒介としてその得意なものから価値が生まれてくる。
それを分け合い、全体の利益を最大化させていく。
それが資本主義社会というシステムのあり方である。

単純化して言うと、農業が得意な人と、商業が得意な人がいるから、農業で生まれた生産物が、商業により各地に伝わり、みんなが幸福になる、というわけだ。
貨幣という「共同幻想(≒抽象的概念から生まれた物語)」をみんなが信じることで、より効率的に、資源の配分ができるようになり、そこに「価値」が生まれる。
共同幻想から価値が生まれている。

また、思想の源流に位置する宗教・哲学といったものも、人類の価値観に大きな影響を与え、歴史を動かしてきた。
約7万年前、認知革命により、人類は複雑な概念を操作する力を獲得したことは上記の通りである。
さらにその後、宗教をはじめとした信仰や、哲学・科学をはじめとした思考のような、さらに抽象度の高いものが生まれ、広がっていったことで、より多くの人々の間で共通の抽象概念が形成されていった。
そういった共通の概念がやがて、普遍性を獲得し、現代にも通じる価値観の源流となっていった。

例えば最も偉大な思想家として名前が挙がる四聖。
ソクラテスの真・善・美、孔子の仁と礼、ブッダの慈悲、イエスの博愛。
そういった教えもまた、全人類の持つ普遍的な抽象概念を言語化したものだ。

現に、西欧の文明はソクラテスの哲学を基にしたヘレニズム文明と、イエスの生み出したキリスト教を基にしたヘブライ文明を思想的な源流としている。
中東の文明にも、ユダヤ教やキリスト教の流れを基にして生まれたイスラム教がその源流にある。
アジア圏で生まれた多くの国では、ブッダを開祖とする仏教の教えが取り入れられている。
特に中国ではその仏教に加えて、孔子が発展させた儒教や、老子による道教、秦の始皇帝が大帝国を築くための基盤となった法家の思想などが社会通念として存在する。

これらの様々な文明圏や文化圏を概観すると、分かることがある。
それは、古代の哲学や宗教といった思想の基盤となった抽象概念が、未だに世界中の人間に大きな影響を及ぼしているということだ。

つまり、「今日まで、人間を人間たらしめてきた何か」の正体は抽象的思考力だということだ。
抽象的思考力なしには、人間は目に見えているもの以外のことを想像することができなかった。
そしてそれゆえに、文明や文化、科学は生まれず、その結果として複雑な精神を獲得する事もなかった。

抽象的思考力が、それら全てを生み出したと言える。

フランスの小説家・サン=テグジュペリの『星の王子様』という小説の中に「たいせつなものは目に見えない」という有名なセリフがある。
あれはまさにこの「抽象的なものを見る力」のことを言っている。

また、哲学の世界に形而上、形而下という言葉があるが、形而上というのも簡単に言うと「目に見えないもの」のことである。(ちなみに形而上というのは、古代ギリシャの哲学者・ソクテラスの弟子のさらに弟子に当たる、アリストテレスの生み出した言葉だ)

具体的には、宗教や哲学といった「思想」、音楽や絵画といった「芸術」などは形而上学的な内容を含んでいる。
そういったものを学んでいくことが、人間の目に見えない本源を知ることに繋がっていく。その本源のなかに、人間の幸福のヒントがあるとも言える。

そして、その「幸福」という言葉自体もまた、抽象概念だ。
人間以外の動物が「幸福とは何だろう?」「自分は果たして本当に幸福なのだろうか?」と抽象的思考を巡らせることは恐らくない。
人間だけが、そういった面倒くさいことを考える。

しかしそれゆえに、人間は質的な幸福を追求することができる。

その質的な幸福を高めていくことが、冒頭に述べた「生きる意味=魂の幸福」に繋がる。

では、質的な幸福とは何だろう。

魂を何かに対して燃焼させることだ。そしてそれは、深い自己理解を経た人間だけがたどり着ける境地だ。

自分自身を深く理解しているからこそ、自分が心の奥底で何を求めているかが分かる。
そして、その求めているものを探求していく過程で魂の没頭を感じた時、人は深い幸福を感じる。
没頭とは、忘我の状態だ。
忘我とは、文字通り「我」を「忘」れること。
忘我の状態にある時、人は自分より大切な何かに出会っている。
自分より大切なものに出会ったからこそ、自分の存在すら忘れてしまっているとも言える。
そしてその瞬間、人は深い幸福を感じる。

それが自分にとっての、幸福の結論だ。

その意味で、子供のために生きる親、小説を書くために生きる作家、科学法則を見つけるために生きる科学者などは、魂の幸福を感じながら生きている人間の典型例と言える。

また、他の生物の場合、子孫を残すという形で自分の遺伝子を継承することができるが、人間の場合、それだけではなく、文化や技術を残すという形でも自分の遺伝子を継承することができる。そこが両者の違いであり、だからこそ文化や技術には時空を超えた価値がある。なのでそれらはミーム(≒文化的遺伝子)と呼ばれたりする。

また、人間の生物としての可能性を自分の内側の世界で広げてくれるのが文化から生まれた精神だとすれば、外側の世界で広げてくれるのが文明から生まれた科学技術だと言える。

人間は進化していく中で、できること、感じとれること、考えられることの幅が少しずつ広がってきた。
それらを伸ばして行った先に何が待っているかは分からない。
しかし、少なくとも現時点においては、そうした進化によって人類は多大な恩恵を受けてきた。
もし進化する事を拒否していたら、人類はいまだにアフリカ大陸から出ずに、肉食動物に怯えながら暮らす日々を過ごしていたはずだ。
その場合、幸福という抽象概念について、こうして文字に起こすことも出来ず、様々な文明の利器も存在しなかった。
それを考えると、その恩恵は明白だ。

そういったできることや、感じとれること、考えられることの幅を大きく広げてくれたのが、他でもない抽象概念だ。
なので約7万年前、人類にこの能力が備わったことこそが、人類史上、最初かつ最大の発明と言える。

現に、その後に起こった農業革命や科学革命も、最初の認知革命の時に生まれた抽象的思考力をベースとして生まれたものだ。
なので、人間はこの抽象的思考力という特殊能力をもっと活かしていかなくてはいけないし、それをいかに発展させられるかで人類の未来が決まると言っても過言ではない。

しかし、その抽象的概念も、非現実的な抽象論を構築するためではなく、現実世界をより良くしていくために存在する、という事を忘れてはならない。
そもそも、抽象概念は集団が同じ価値観や規範の下で協力するために生まれた。
そういう背景を考えてみても、現実世界で人々が協力してこそ意義があるものなのだ。
上で述べた様々な宗教や哲学も、一見「天国と地獄」「輪廻転生」「あの世」「悟り」「因果律」「神の国」など、この世界ではないどこか別の場所について語っているように見える。しかし、創始者の教えをよく聞いてみると、この世界でより善く生きるための考え方を述べている事に気付く。

例えばイエスは「神」について語っているが、その本質は「自分の心の中にある愛や、他者と分かち合う愛」を意識することだ。それにより、地球上に愛のある人間関係(≒神の国)が生まれることを目的としている。また、ブッダは「悟り」について語っているが、その本質は「この世の全ては『関係』によって存在している。そのため、自分や世界といったものは存在しない」という宇宙の認識論だ。それにより、物事を正しい方法論で見て、生きていくことを目的としている。

意外にも、そういった教えの本質は、「今ここ」にある現実をより良く生きることにある。
「神」とか「悟り」的なものは、それを分かりやすく説明するための比喩だとも言える。

そして古くから、様々な神話が語り継がれてきたのも、そういった物語という形式が、聴く人の印象に強く残るからだ。
もしそれが物語ではなく、ただの抽象的な思考に終始したものであれば、多くの人々はその内容を理解できなかっただろう。
物語にすることによって、生きていく上で大切なエッセンスが何であるかを多くの人々に伝えることができた。
それが、古代の宗教や神話の原型になった。

つまり、物語の内容というよりは、その物語の内側に込められたエッセンスが大事なのだ。

では、そのエッセンスとは何か。

生きていく上での心のあり方だ。

なので神や因果律とは、超自然的な何かのことだけではなく、心のあり方のことも指している。

そういった思想的な観点を、冒頭の魂の燃焼の話につけ加えるとすれば、
「生きる意味=よりよい生き方を求めて魂を燃やし続けていくなかで、深い幸福を感じること」となる。

もっとも、この結論はあまり面白みがないもののように思えるかもしれない。

それはなぜかと言うと、この結論がすでに人類最高峰レベルの賢人たちによって広め尽くされてしまった精神性だからだ。

皆が当たり前に感じるくらいに、人類の心の奥深くに刻まれているものだからこそ、あえて言語化すると凡庸なものに見えるのだといえる。

魂を燃やし続け、深い幸福を感じること。

それが2023年現時点の、私の人生論だ。

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