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松本人志の性トラブルから考える、日本社会の「ホワイト革命」

 松本人志の女性スキャンダルが連日、ニュースを騒がせている。

 これをみて思ったのは「ホワイト革命」が着実にすすんでいるんだな、ということ。

 「ホワイト革命」とは、文化人・岡田斗司夫が提唱する「近年、日本社会に起きつつある価値観の変化」のことだ。具体的にいうと「清潔で、見た目がいいもの(≒ホワイトなもの)が正しい」という価値観のことであり、若者になればなるほど、そういった傾向が強くなっているという。

 例えば、ある一定の世代より上の人たちは「汚いものの中に真実がある」という価値観が主流だった。だから、外観は汚いけれどおいしい料理を出す定食屋とか、顔は○○だけど正義の心を持つ主人公とか、そういうものが好まれた。

 それに対して、若い人たちは「きれいなものの中に真実がある」という考え方になりつつある。だから、おいしい料理を出すお店は、掃除のいきとどいた、清潔な外観であってしかるべきだ、というような感覚を持つ人が多い。

 松本人志の性的トラブルの話も、こうした「ホワイト革命」の観点からすると、世代ごとに若干、受け止め方が違ってくるのではないかと感じる。 

 若い人たちは恐らく、シンプルに「キモい」と感じている人が多い気がする。妻子がある立場にもかかわらず、自分の後輩に女性を集めさせて遊ぶ松本人志とその取り巻きたちに対する、拒否感が強いのではないか。

 中高年層は恐らく、それよりもう少しだけ寛容で、「まぁ成功者でお金があったら、そんな遊びもしてるんだろうなぁ(自分は成功者じゃないから知らんけど)」くらいに感じている人が多い気がする。地位や名声、お金の絡んだ場所にはそういう闇は当然あるだろう的な。

 「ブラック」に拒否感を示すか、自分たちの知らない成功者の世界にはあってもおかしくないものとして受け止めるのか。そこに、「ホワイトではない状態」に対する抵抗感の差が出ているのではないか。(もちろん、性加害や不倫がダメなのは前提の上で)

 一応、私は中高年側の人間なので弁護すると、そういった「ホワイトであること」をどこまで当然のものと捉えるかは、その人自身が若い頃、価値観が固まる時期において社会がどんな風だったか、によって決まると思うのだ。

 中高年の人たちが若い頃には、今ほど社会はクリーンではなかった。外見や生まれ、経歴などによる差別が、今よりもっと露骨に行われていた。「いい学校を出て、いい会社に入るのが結局、幸せな人生だ」とか「レールから外れた人生は大変だぞ」というアドバイスが当たり前に存在したし、みんなそれを当たり前のことだと思っていた。「外見の優れない人間は笑いのネタにされて当然」「変わり者や、社会の外れ者は虐げられて当然」という空気感があった。それは社会が未成熟だったからとも言えるが、そういった社会の姿を当たり前だと思わず、「そういうのは、おかしいと思う」と声をあげた人たちも過去にいたからこそ、少しずつ社会は良くなってきた側面もある。

 私個人の見解だが、結局のところ時代が進むにつれ、社会全体が豊かになって、個々人の価値観もそれに伴って洗練されていくことで、昔は「綺麗事」だったことが、現代では「実現可能な目標」になっただけだと思うのだ。昔だったら「そりゃ、そんな綺麗事で生きられたらいいけどさ…」となっていたものが、今だと「みんなの心がけ次第でそれは達成可能なんだから、そうあるべき」となっただけ、というか。

 「ホワイト革命」にはいい点がたくさんある。しかし一つ課題を挙げるとすれば、優れた外見や、社会の理想像にばかり目が向いて、その裏側にある、それを維持するための犠牲から目をそむける事にもなりやすいということだ。例えば外見でいうと、街中を歩く人たちがみな外見に気をつけ、清潔感が出てくる一方で、自分の外見に苦しむあまり、過剰な整形をくり返したり、外出できなくなったり、他者とうまく付き合えなくなる人も出てくるかもしれない。綺麗な社会の裏側には、その状態を保つための犠牲が生まれることがある。そういう不都合な現実を見て見ぬフリしすぎないこともまた、「ホワイトな正しい姿勢」だと言えるのではないだろうか。

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