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SNS検索>ググるという構造が、民主主義の欠陥と似ている件について

今から20年ほど前、グーグル検索は革命的な発明だった。

それまで私は、Yahoo!カテゴリに登録されたものしか検索されない「Yahoo!検索」や、雑多な情報がごちゃまぜになって表示される「goo検索」を使っていたので、はじめてグーグル検索を使った時、目的のサイトを高速かつ高確率で探し出せる利便性に感動したのを覚えている。

しかし時が経ち、「ググる」利便性は低下してきているように思う。検索してみても、公式サイトや、商品の広告を目的としたサイトばかりが1ページ目に出てくるためだ。公式の情報や、商品の広告サイトに出てくるのは、理念や建前の部分だ。そうではなく、多くの人は、様々な「生の声」が聴きたいのだ。

恐らく、私と似たようなことを感じている人は多く、そういう人たちは生の声を聴くために、SNS検索を使うようになってきている。一個人の感想を何のフィルタリングもなしに聞けるからだ。例えば青汁について調べる時、公式サイトでは「良質な環境で栽培されたケールを使っています」と書いてあっても、SNSで検索してみると「ケールの匂いがキツくて飲みにくい」「ケールの健康効果をウリにしているが、他の青汁を飲んでいた時のほうが体調や便通も良かった」といった、実際の声が出てくる。

なので、徐々に検索エンジンからSNS検索へと、検索の利便性は移ってきているように個人的には感じている。この問題を考えたとき、私はふと検索エンジンの問題点と、民主主義の問題点との、ある種の類似性を感じた。

民主主義とは、一人一人の国民に主権があるという思想だ。そして主権とは、その国の意思決定権のことである。つまり、一人一人の国民にその国の意思決定権があるということであり、そういった思想のもと、国民は自分の求める政治を行ってくれるであろう政治家に一票を投じ、その政治家が当選した際に、自分の望む方向に向かうような政治を間接的に行ってもらう。

しかし民主主義には、様々な問題が存在する。それは、大多数の国民にとって都合が良かったり、耳障りのよいことばかりを公約に掲げて当選するポピュリズム政治家の存在や、大きな票田を確保しているため、発言権が強くなりすぎた巨大な既得権益の存在などだ。

これらの存在により、本当に必要な政策が行われない、という構造的な問題が起こりやすい。

そしてこの問題は、先ほどの検索エンジンの問題とどこか似ている。

例えば、検索した時に出てくる公式サイトの「理念」や商品宣伝サイトの「建前的な意見」は、ポピュリズム政治家のいう耳障りのいい「理念」や巨大になった既得権益の主張する自己利益のための「建前的な意見」と、どこか似ていないだろうか。

こういったものには、本音だけではなく、自分の置かれた状況を有利に進めていくための戦略が多分に含まれていることが多い。
しかし大事なのは、たくさんの生の声を集めることで見えてくる、最も改善が必要なことは何かという本音の芯の部分と、それを受けた改善策なのではないかと思う。

私が個人的に面白いなと感じるのは、民主主義というかなり「公的」な制度と、グーグル検索というかなり「私的」なサービスが、似たような構造的問題を持つという点だ。おそらく公的にしろ、私的にしろ、それを扱うのが人間なため、似たような問題が発生するのであり、そこに人間の普遍的な社会構造のようなものを発見して、興味深く感じるのだと思う。

そして検索システムにしろ民主主義にしろ、将来的に、その欠点をAIが解決していくことになりそうだという点も、どこか面白い。人間は不完全な存在であり、その不完全な部分をAIに補助してもらうという流れは、時代の必然なのだろうと感じさせられる。

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