長瀬海

ライター・書評家。「週刊金曜日」書評委員。 「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。…

長瀬海

ライター・書評家。「週刊金曜日」書評委員。 「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」。共著に『世界のなかの〈ポスト3.11〉』(柄谷行人ほか、新曜社)など。 連絡先:nagase0902(a)gmail.com

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    仕事で書いた文章の告知をただただ自分のための備忘録としてストックしていきます。

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あれから一ヶ月半の経つ梨泰院で食べたサムギョプサルが美味しかった話

韓国を訪れたのは、4年振りで3度目だった。 1度目は15年前で、暇を持て余していた大学4年時の夏休み。アジアのあちこちをひとりで遊んで回りながら最後にソウルに辿り着いたときには、僕の所持金は2000円しかなかった。「寝床の確保か焼肉か」という究極の二択を迫られて、泣く泣くソウルタワーのふもとの公園のベンチで夜を明かしたのが懐かしい。 2度目は4年前に仁川で開かれた若手研究者のワークショップに参加したときだったから、自由に街を散策する時間はそんなにあったわけじゃない。だから

    • 「週刊金曜日」(2024年4月12日号)にカラー二・ピックハート『わたしは異国で死ぬ』(髙山祥子訳、集英社)の書評を書きました。

      この小説が描くのは2014年にウクライナで起きたユーロマイダンという革命。当時のヤヌコビッチ大統領による親ロシア的な政策に抗議する人々が治安部隊と衝突し、おびただしい数の死者が生まれたあの革命に取材したアメリカ人の作者は、キーウにあるマイダン広場を中心に、一つの大きな悲しみの物語を紡ぎます。現在の世界に生きる〈わたし〉たちならみんなが共有しうる、痛みや喪失としての悲しみの物語を。 語り手のまなざしの先にいるのは、三人の男女。 ひとりは、広場付近の修道院で働く医者のカーチャ

      • 「週刊金曜日」(2024年3月29日号)に金成玟『日韓ポピュラー音楽史』(慶應義塾大学出版会)の書評を書きました。

        K-POPが日本の日常的な風景の一つとなって、どれくらいが経つでしょうか。というものの、じつはそれって最近のことなんですよね。戦後の韓日の音楽史を考えると、両者は真正面からなかなか出会うことができない時間を過ごしてきました。 では、なぜ僕らは出会えなかったのか。本書は、戦後から現在までの日韓の音楽史を追いかけながら、両国の音楽がなぜすれ違い、あるいはぶつかり、ズレを生み、また融和したのかを論じた一冊です。 この本のキーワードの一つは〈まなざし〉。本書で、著者の金さんは、旧

        • 「週刊金曜日」2024年3月15日号に中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房)の書評を書きました。

          今回の書評では、いま、なぜエドワード・サイードなのか、という問いを立てて、本書を評しました。端的に言えば、この本が試みているのは、サイードとともに、批評の力を取り戻すことです。だから、著者はサイードと真摯に対峙しながら、彼にとって批評とは何だったのかを追跡するわけです。 著者の中井亜佐子さんは言います。 そして、次の文章が続くのですが、ここはこの本のこころざしが最も明確に表れている箇所です。 サイードの批評意識とは何だったのか。たとえば、それは、理論を机上で形骸化させな

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        • 「週刊金曜日」(2024年4月12日号)にカラー二・ピックハート『わたしは異国で死ぬ』(髙山祥子訳、集英社)の書評を書きました。

        • 「週刊金曜日」(2024年3月29日号)に金成玟『日韓ポピュラー音楽史』(慶應義塾大学出版会)の書評を書きました。

        • 「週刊金曜日」2024年3月15日号に中井亜佐子『エドワード・サイード ある批評家の残響』(書肆侃侃房)の書評を書きました。

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          20本

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          「週刊金曜日」に沼田真佑『木山の話/幻日』(講談社)の書評を書きました。

          僕は、この人の言葉をずっと、ずっと待っていました。沼田真佑さんの二冊目の本。2017年に芥川賞を受賞した『影裏』以来なので、七年ぶりですか。長かった。 木山という男の、連作短編集です。この作品集のなかに収められた八つの短編では、東北に住む小説家であるこの男が東北や東京のあちこちをとにかく移動し続け、たくさんの人と出会います。気になるのは、そんな彼がどこか仄暗さを抱えているように見えることです。ありていに言えば、木山は孤独である。書評ではその「仄暗さ」を探っているので、そちら

          「週刊金曜日」に沼田真佑『木山の話/幻日』(講談社)の書評を書きました。

          「週刊読書人」(2024年2月16日号)に杉浦静『宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ』(文化資源社)の書評を書きました。

           宮沢賢治の『春と修羅』は、一見詩集のように見えますが厳密に言えば、そうじゃありません。賢治本人は、それを〈心象スケッチ〉と呼び、〈仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明〉である〈わたくしといふ現象〉が明滅する瞬間の影と光、つまり、外界の風景を前にした心の機微の描写と捉えたのです。ノートに記されたそんなスケッチは、いくたびにもわたる差し替え、加筆、削除を経て、作品集として編まれていったわけです。  この本は、賢治研究の第一人者として、この〈心象スケッチ〉の生成変化そのも

          「週刊読書人」(2024年2月16日号)に杉浦静『宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ』(文化資源社)の書評を書きました。

          「週刊金曜日」(2024年2月16日号)に飯田朔『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(集英社新書)の書評を書きました。

          新しい批評だと感じました。 大学も就活も働くことも、しんどい。だから、抑圧に満ちた世界から〈おりる〉。そんな著者の実感から書かれる批評が射抜くのは、やたらと競争を強いる僕たちの社会です。生き抜くために競い合い、成長し続けることを称揚する世のなかの思考とは違った生き方はないのか。この閉塞感から逃れる思想を作れないか。そこから著者は映画作品を読み解きながら、自分に大切な思想を紡ぎます。 大きい言葉や、強度をがちがちに高めた言葉ではなく、地力で考えていることがわかる言葉遣いで書

          「週刊金曜日」(2024年2月16日号)に飯田朔『「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから』(集英社新書)の書評を書きました。

          連載「アジア文学への招待」最終回でラシャムジャ『雪を待つ』(星泉訳、勉誠出版)を取り上げました。

          チベット文学、いや、アジア文学の大傑作です。この連載のお話をいただいたときから、最終回は絶対にこの小説にしようと決めていました。 この物語はチベットの奥地にあるマルナン村に、雪が降ったある朝の情景から始まります。1980年代。文化大革命が終わったばかりのチベットは、新しい時代の幕を開けようとしていました。 文革で破壊された僧院が復興され、中国政府によって教育の普及が進められると、この村にも学校が建設されます。その学校で〈ぼく〉や幼なじみたちが成長を遂げる姿を鮮やかに描写す

          連載「アジア文学への招待」最終回でラシャムジャ『雪を待つ』(星泉訳、勉誠出版)を取り上げました。

          『週刊読書人』(2024年2月9日号)で哲学者の岩内章太郎さんと対談しました。

          岩内さんの新刊『〈私〉を取り戻す哲学』(講談社現代新書)を巡る内容です。この哲学書は信念と信念のぶつかる音が鳴り止まないSNSの空間で、〈私〉であり続けるためにはどうすれば良いかを哲学的に思弁した本。岩内さんはここで新デカルト主義に立ち返ることでその隘路を見出しています。 対談でも言いましたが、僕はずっと信念対立が極限まで行き着いた現代にあって、フッサールの現象学的な考えを捉え直すことが大事なんじゃないかと思っていました。なので、岩内さんのこの本はまさに渡りに船な一冊でした

          『週刊読書人』(2024年2月9日号)で哲学者の岩内章太郎さんと対談しました。

          「週刊金曜日」2024年2月2日号にセルバ・アルマダ『吹きさらう風』(宇野和美訳、松籟社)の書評を書きました。

          今回の書評の末尾です。 この作品は、技術的に何か派手なことを試みているわけでもないし、大事件が用意されているのでもない。わずか140ページほどの小説には、神父と娘の乗った車が故障し、老齢の整備工とその助手に修繕してもらう、その数時間の邂逅が、アルゼンチンの郊外の風景をバックにただ描かれているだけ。 しかし、人間の真実を見つめる作者の眼力が、上のように評することを許す、そんな作品です。小説の原初的な可能性を高純度で抽出したような、なんだかすごい小説を読んだ気になりました。

          「週刊金曜日」2024年2月2日号にセルバ・アルマダ『吹きさらう風』(宇野和美訳、松籟社)の書評を書きました。

          辺境は、いま、どこにあるのか ーーGoogle時代の紀行文学

          1、紀行文学とは何か  さて、今日は「辺境は、いま、どこにあるのか ―― Google時代の紀行文学」という題でお話をしたいと思います。今回、僕がこの研究会に呼ばれたのは、みなさんが以前、僕がある場所で書いたブルース・チャトウィン論「虚構と紀行のはざまで」をたまたま見つけ、読んでくださったからだとうかがいました。そこで僕は、ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』が紀行文学として特異であり、同時代の文学のなかでも傑出した作品であるのは、あの小説が「旅によって触発された物語的想

          辺境は、いま、どこにあるのか ーーGoogle時代の紀行文学

          虚構と紀行のはざまで――『パタゴニア』という物語の作り方

          1、はじめに  ブルース・チャトウィンの本を読んでいると、身体がうずうずしてくる。押し入れに眠ったバックパックを背負いたくなる。特に、『パタゴニア』(芹沢真理子訳、河出書房新社)なんて極めて優れた冒険の書だ。この本が傑出した世界文学なのは、それが南米の秘境の真実を暴きだしているからじゃない。むしろ、彼のパタゴニア体験の真実味を限りなく薄め、実際に見たのか見なかったのかわからないモノに漂う抒情性、そしてパタゴニアにまつわる史実の劇化を物語に加えることで、この旅行記は文学として

          虚構と紀行のはざまで――『パタゴニア』という物語の作り方

          「英語教育」2月号で、オルハン・パムク『赤い髪の女』(宮下遼訳、早川書房)を書評しました。

          「アジア文学への招待」第5回はトルコの巨匠、オルハン・パムクの『赤い髪の女』(宮下遼訳、早川書房)を取り上げました。 少し思い出ばなしになりますが、僕がイスタンブールを訪れたのは2009年でした。大学生の夏休みで暇すぎたからアジアを周遊していたときにドバイ経由でやってきたんですね。ボスフォラス海峡を挟んで、東側がアジア、西側がヨーロッパと、まさしく西と東の境界線上にあるイスタンブールは文化の混淆する街でした。路地裏を歩けば、パンの芳しい香りが充満していて、かと思えば、西アジ

          「英語教育」2月号で、オルハン・パムク『赤い髪の女』(宮下遼訳、早川書房)を書評しました。

          「週刊金曜日」(2024年1月19日号)にモアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』(野崎歓訳、集英社)の書評を書きました。

          小説を大文字の言葉でくくることの罪深さと、そこで醸成される文学者の使命感。その狭間で煌めく、書く者の孤独。それらを見つめながら小説家として生きることの意味を掴み出す本作は、2021年にゴンクール賞を受賞した傑作長編です。 物語の中心に不在しながら、たたずむのはT・C・エリマンというセネガルにルーツを持つ架空の作家。彼は1938年に『人でなしの迷宮』を上梓すると〈黒いランボー〉と呼ばれフランスにおける文壇の寵児となるのですが、のちに様々な神話の引用が剽窃だと取り沙汰され、論争

          「週刊金曜日」(2024年1月19日号)にモアメド・ムブガル・サール『人類の深奥に秘められた記憶』(野崎歓訳、集英社)の書評を書きました。

          『すばる』2月号に掲載の小説家の西加奈子さんと写真家の長島有里枝さんの対談を構成しました

          西さんは長島さんが90年代に牽引してきたガーリーフォトのシーンに浸って青春を謳歌してきたといいます。そんな二人の表現者の、時を経ての邂逅っていいですよね。 対談は、西さんご自身のガン闘病記である話題のノンフィクション『くもをさがす』そして、新刊の短編集『わたしに会いたい』への、長島さんの共鳴から始まります。 お二人が両作を通じて見つめる、この時代の〈優しさ〉とは何か。そのことを考える対談のタイトルを〈間違えてもいいから、優しいままであること〉としました。まさしく、正しさが

          『すばる』2月号に掲載の小説家の西加奈子さんと写真家の長島有里枝さんの対談を構成しました

          「英語教育」1月号に掲載の連載「アジア文学への招待」でプラープダー・ユン『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会)を紹介しました。

          プラープダー・ユン『パンダ』はゼロ年代に書かれた、タイのポストモダン小説です。主人公はパンダ。と言っても、あのモフモフの動物ではありません。 でっぷりと太った醜い相貌の二十七歳の男性。普段から狭い自室に閉じこもりがちで、日中は成人男性向けのシナリオを打ち込む仕事に勤しむ、ポルノ映画会社のうだつのあがらない社員。寝不足のせいで両目に隈のある、恋愛とは無縁な非モテの大人。〈本名を持ちながら、誰も本名では読んでくれない〉自分とは何かに悩む人物がこの作品の語り手。 そんな彼がある

          「英語教育」1月号に掲載の連載「アジア文学への招待」でプラープダー・ユン『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会)を紹介しました。