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独女子無の老後

伯母の話

父の姉
伯母は生涯独身
博愛の人だったのか、障害者福祉施設で働いていました。
(重度棟もあったようです)
両親は早くに亡くしていました。
母は30代で結核で亡くし、父は本妻のところだったそうで詳しくわかりません。
妾家だったせいか、かなり苦労をしたらしく、伯母は看護師免許を取って福祉施設へ就職。
父は本家の魚屋で学び独立。
あかんたれのドラマのようでした。
いつも「昔はよくある話」と・・・

二軒先に本妻の魚屋さんがあったので「その店の前は通るな」と小さい頃は言われていました・・・
なんかわからんけど、あっちの道は通っちゃいけないんや、と。
その理由が分かったのはかなり大きくなってからでした。

伯母の暮らしぶりは裕福なようで、友達と早くにマンションを購入し、独身同士助け合っていました。
お友達は結婚したそうですが、転居後もそう遠くなく、仲良くしていたようです。(しかしその実サプリ、鍋、健康器具をたっぷり買わされていたことが判明)

結核で亡くなった母の姉が、父と伯母の親代わりで面倒をみてくれいてようで、そちらお子さんがたとも兄弟姉妹のように付き合っていました。

しかしそれはだんだん変化していきました。

親代わりだった方々も年を取ります。

伯母も定年を迎え、母親代わりの方の認知症がだんだんひどくなりました。

お子さん方は「仕事がー」とか「遠いからー」となんやかんや言い放置のようで、親代わりに育ててくれた恩義で伯母が「定年で時間ができたからお世話させてほしい」と申し出。
三人の子供たちからありがたくお世話係をお願いされ、金銭的にも人的にも、ほぼ何も補助されずほぼ一人で「介護」していたそうです。

自宅の3LDKのマンションに親代わりの方二人と自分で三人。
少しの期間「親子水入らずごっこ」を楽しんでいたようです。
そんなときも長くはなく・・・ほどなくして認知症も進行して「もう無理・・・」と、ご主人がギブアップ。
そうでしょう、ご主人もご高齢です。
老々介護。
とうとう
いよいよ
施設に入ってもらうときが来たようです・・・
ちなみに奥さんのほうが柔和な、白髪の素敵な色白のおばあちゃんでしたが、だんだん旦那にきつくあたる文句しか言わないおばあちゃんになったようですが、まわりからは「昔から旦那さんに嫌事(いやごと)ばかり言っていた」そうだから、結局年をとっても変わらなかったって事かな。

ちなみに、その間お子さんたちはちょろっと様子をうかがうために顔を出していたようです。
それが「親孝行」らしい・・・
たったそれだけでも「介護したかしてないか」だと「した」になるんでしょうね。

施設は長男の家の近く。
眺めの良いところだったそうです。
月20万
看護もついていたので妥当な金額でしょうか。
伯母はこれまた付きっ切りで看護、ご主人のほうは息子夫婦の住むマンションへ引っ越しました。
伯母には「大変お世話になった。あんたの今後は息子夫婦に任せたし、わしが居なくなったらこの部屋に住めばいい。お金は気にするな、それ以上のことをあんたはしてくれたんやけ」ってのをかな~り聞かされていたようです。
もちろん紙に書いたりはしていません。
すべて「口頭」ですし、それを聞いたのは当人たちしかいません。

母親代わりの方もしばらく施設に入っていましたが、月20万の負担は子供たち3人には重くのしかかっていました。
悪いけど、彼らの頭の中には「次の支払いどうしよう」って事ばかりだったと思います。
私の耳にもその話は入ってきていましたから・・・

幕切れは意外とあっけなく。
数か月で亡くなりました。
家族、親族一安心。

自宅へ帰ると遠いので、伯母は私の実家に泊まることもありましたし、いずれ自分の住まいになるであろう「マンション」にも泊まっていたようです。
その時は手厚いもてなしを受けていたらしい・・・

その後、後を追うようにご主人も他界。

伯母はまだ元気だったので、例のマンションに行くこともなく、私の家で母と老々介護していました。
私の家は父も闘病で入院。
父が「うちに来てほしい」と言っていたので、なんとなくうちに居座っていました。
母も少し認知症がでていたので、少し助かりましたが、我が物顔にふるまわれ、リビングを占領されていたので、気持ちとしてはちょっと複雑。
台所も伯母仕様にされ、私は実家に帰っても「お客様」扱いでした。
伯母は台所仕事が好きで倹約家。
いたるところにヨーグルトのカップが仕切りや、器として使われていたり、オクラの入っていた緑のネットが多用され、ストックされていました・・・

テレビを見たくてもどっかりリビングにベッドを持ち込み生活され、暑い夏に冷たい飲み物が飲みたくても、冷蔵庫内は母と伯母の食べ物やなんかでびっちり。
ドリンク一本入れる隙間もない時もありました(;_;ぴえん
母の面倒も見てくれいている恩もあり、強くは言えず「少し私が食べ物入れるスペースも欲しい」とお願いしたら、ちょっとだけ空けてくれるようになりました。

そうこうしている間に私の兄が病気で他界、思いがけないことでした。
こんなに早く亡くなるなんて><
父の相続を伸ばし伸ばしにしていましたが、着手せねば・・・

そうしたとき義姉が「このお金はすべて私がもらうことになっています」となぜか主張・・・
一週間前までは「法定相続通りに分けましょう。お義母さんとあなたと私で公証町役場に行ってきちんと相続の手続き書類に残しましょう」って言ってたのに「いまさら何言ってるの?お義母さんに聞いてください」って。
父の遺産→法定相続通りに分配
それは私だけが思っていて、兄家族が全部もらうって話が「私以外」でできていたようです。

親族会議開催
私も今後の母の生活を見ないといけないので、安給料のサラリーマン、父の遺産は大事です。
「私は自分の分を主張します」と断固譲らなかった。
あきれる親族。
母から「出ていけ~」と言われ出ていき実家から福岡の自分の家に戻りました。

再度親族会議
義姉は親族にネゴっていたのか、病気がちなシングルマザー、子供二人に周りは優しく「あなたにもらう権利ない。どうしてお金に執着するのか」他親族からこっぴどく罵声を浴びせられましたが「みんなわかってない。」と思いました。

母、伯母も義姉から棄てられる

義姉は母の面倒見るなんて口では言ってるけど、まったくする気ないし(以前から聞いていました)、お金もらったら転居するなんて言ってたけど、老人はほとんど優しい言葉にだまされ、私は孤立無援でした。

「お義母さん、車で数分の距離ですよ?何かあったら私がしますよ。近くに住んでるんですもん。でも子供がいるから同居は無理です、それはわかりますよね?」
「遺産を全部もらう理由は今後の子供にかかるお金とこれまでもらった給料から算出しました」え?そんなに給料高かったっけ?
兄は家の魚屋を手伝っていました。
親が遅くまで残っている中、一人ホワイト企業並みの時間に退社。
親も「子供が小さいうちは」って言ってたけど、その実早い時間から酒浸りだったようです。
幼稚園のお絵かきで子供が「お父さんは家でビールをぐびぐび飲みますっ」って自慢げに言ってたようで、お絵かきの時間に家のことが露呈し(笑)

話を戻します
結局義姉からは「縁を切ります。子供たちも、自分たちのお金を取った人に会いたくないって言ってます」小中学生がそんなこというかね?親が吹き込んでるしかないでしょう・・・
こちらとしてはハイ、わかりました、でもお金はいただきます、と言って、お金をもらう根拠のお手紙書きました。
なぜか脅しと取られたようで、母に泣きながら「こんな怖い手紙きたんですぅ~~~」って言ってきたらしい・・・
私、周りに見せていただいて構いません、って書いてますし、弁護士にも相談済みなんですけど・・・
母から激怒の電話数回
地下鉄乗り過ごすの巻~帰宅時はほんとこの電話恐怖だった(出なきゃいいけど、高齢だからなにか別の内容かもとかも思って・・・ね)

結局嫌々義姉はお金をくれました

母からは「二度と帰ってきなさんな!」
伯母からは「親の金あてにした腹黒い娘。どあつかましぃ」
って言われました。
この家の名義は私なんですけどね(;・∀・)

母と伯母の二人暮らし

生活品も私が都度都度補充していました。
止めました。
やっててもそう感謝されない。
どころか「こざかしい」。

私の代わりにIさん(親代わりだった方の息子さん、伯母とは姉と弟のように育ち、伯母も小遣い渡したり気にかけていた)が買い物担当となり、月に何度かトイレットペーパーやお米やなんか買ってきては「ありがとう~助かる~」と費用とお小遣い(3000円)をもらって帰っていきました。

そんな生活が何年か・・・
伯母も昔患った癌が再発。
母の世話どころではなくなりました。

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