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『フランケンシュタイン対地底怪獣』戦争と科学の共犯関係をめぐる3つの視点



『フランケンシュタイン対地底怪獣』1965年東宝

監督:本多猪四郎
脚本:馬淵薫
原案:ジェリー・ソウル
出演:ニック・アダムス、水野久美、高島忠夫、土屋嘉男

★戦争と科学の共犯関係からの観察

【映画の概要】

 終戦間際のドイツ、フランクフルトのリーゼンドルフ博士の研究所にドイツ軍兵士が現れ、トランクケースを奪い去ってゆく。トランクはUボートに積み込まれて出航。
 その行先はアジアだった。
 日本から派遣された伊号潜水艦はUボートと洋上で接触、トランクを受理する。

 広島の衛戍病院に運び込まれたトランクの中味はオレンジ色の液体に浸されて生きていた「フランケンシュタインの心臓」であった。

 ナチスドイツの研究所で保管されていた不死の細胞組織を持つ心臓から不死の兵士を製造するというプロジェクトを崩壊寸前のドイツから日本が引き継がれたのだ。
 ところが、1945年8月6日、広島に投下された原爆によって、フランケンシュタインの心臓は行方不明となる。

 戦後15年、広島の放射線医学研究所で被爆者の放射線障害の治療研究に従事するアメリカの科学者、ジェームズ・ボーエン博士(ニック・アダムス)、日本人スタッフの川地堅一郎(高島忠夫)、戸上季子(水野久美)の3人は、原爆の放射能に耐性をもつ不思議な浮浪児を保護する。

 フランケンシュタインの心臓を広島へ送り届けた河井元海軍大尉(土屋嘉男)は、ボーエンたちに浮浪児がフランケンシュタインの心臓から成長した姿なのではないかと告げる。

 フランクフルトで存命だったリーゼンドルフ博士の証言により、浮浪児がフランケンシュタインかどうかの決め手は、手か足を切断するしかないという。もしも手足が再生すればフランケンシュタインであるのだという。

 川地は確かめるためにも、手か足の切断実験の実行を主張するが、非人道的だと李子は強硬に反対し、慎重派のボーエンによって、実験は見送られる。

 諦めきれない川地は独断で、実験を行おうとするが、その直前に怪人は研究所から逃亡してしまう。

 脱走の際に怪人が残した右手首から、フランケンシュタインであることが確認される。

 再生細胞の謎を解く鍵であるフランケンシュタインを追う3人の科学者。追っ手は彼らだけでなく、世論に後押しされた警察や自衛隊もフランケンシュタインを処分しようと追い詰めてゆくのだった……

(1)フランケンシュタインをめぐる3人の科学者

 日米合作の怪獣映画『フランケンシュタイン対地底怪獣』は、メアリー・シェリー原作のゴシック小説『フランケンシュタイン』の怪物を日本に登場させた映画です。

 この映画ではフランケンシュタイン博士が創造した人造人間を殺されてもよみがえる不死の生命という設定にしています。

 この設定1931年公開のユニヴァーサル映画『フランケンシュタイン』から、そのシリーズ最終作『ドラキュラと女せむし』まで7本の作品で、人造人間が何度も死に、また都度生き返っているという経緯を意識して導入されたものと考えられます。

 ボーエン、川地、李子の3人の科学者は、フランケンシュタイン(正確にはフランケンシュタインの怪物ですが、この映画の劇中ではフランケンシュタインと呼称されていますので、本稿でもそれに従います)の絶対保護を訴えますが、世論は殺せの意見が大多数で、やがて孤立した立場に追い込まれてゆきます。

 富士山麓まで追いかけた3人は、巨大になったフランケンシュタインの保護にほぼ絶望的に思っているのですが、川地は自衛隊によって砲弾で粉々にされる前に、発光弾でフランケンシュタインの目をつぶして、その隙に肉体の一部をサンプルとして採りたいと提案します。

 ボーエンも李子も殺すよりも残酷だと反対しますが、川地の決意は変わりません。

 そこへ地底怪獣バラゴンが偶然にも出現し、逃げ遅れた川地はフランケンシュタインによって、その命を救われます。

(2)戦争と科学をめぐる3つの視点

 この映画の一つの主題を考えるなら、科学と戦争の関係があります。

 ボーエンも李子も川地も、科学研究では同じ方向を向いています。
 それは核兵器によって破壊された人体組織の再生法、原爆症の治療の発見という目標です。

 ところが、フランケンシュタインを巡って3人は二つに分かれて対立することになります。

 怪人がフランケンシュタインであるかどうかを確認するために生体実験も辞さないという川地、それに対して非人道的だとして反対するボーエンと李子。

 反対派のボーエンと李子の間にも差異があり、ボーエンの想いは原爆で多くの人びとの命を奪ったという自責にの念に支えられた倫理観であり、李子の想いはフランケンシュタインの世話役をしてゆくうちに芽生えた母性にも似た人間愛からと、その動機が違っているのです。

 意味深いのは、ボーエン博士は戦時中、アメリカの原爆開発に参加していたという過去があり、戦後、広島へ単身、自分の意思で研究にやってきたのはその贖罪の意味からという点です。

 そのアメリカの原爆開発プロジェクト、マンハッタン計画にボーエン博士が従事していた同じ頃に、ナチスドイツの研究所でリーゼンドルフ博士がフランケンシュタインの心臓から不死身の兵士を創造する実験を行おうとしていたのです。

 戦後、リーセンドルフ博士を訪ねた川地は、博士から怪人の手足を切断する生体実験を行なって、フランケンシュタインかどうかの確認をすべきだと勧められ、川地はボーエンや李子の反対も聞かず生体実験を行おうとします。

 ここで川地は無意識のうちにナチスドイツの兵器開発実験の後継者となってしまっているのです。

 フランケンシュタインの研究は未完に終わっているのですが、ボーエン博士が従事した原爆開発は成功し、そのために夥しい命が失われた。
 ボーエンはその結果を持って、科学が戦争に助力したことへの反発があるのです。

 つまり、この映画での「原爆」と「フランケンシュタイン」は戦争というキーワードで結びついています。

 ボーエンはナチスが産んだ負の科学、破壊と殺戮の力として使用されるはずだったフランケンシュタインを「人類の再生」へと結びつけたい。
 もちろん、川地も同じ目的なのですが、そこではナチスと同じセオリーを用いなければならない。

 生体実験という方法で持って、倫理の範疇から逸脱するほかないとうするのが、川地の立場ですが、原爆開発に関わった経験があるボーエンは、そうしたことには懐疑的なのです。
 
 この二つの対立のなかで、人類が誇らしい文明という名の下に、進歩を重ねてきた科学とは違う、プリミティブな生命を自然に創造しうる女性という性を持つ、李子の人間愛が両者を観察している。

 『フランケンシュタイン対地底怪獣』の科学と戦争の共犯関係はこの三つの対立のなかで、よりよい理想を発見しようと模索しているのです。

(3)歴史にみる戦争と科学の共犯関係

 ボーエンと川地の対立は、歴史的にみても明らかな難しい問題です。

 マンハッタン計画で中心的な役割を果たした物理学者、ロバート・オッペンハイマーは熱心に原爆開発に取り組みましたが、その使用には最後まで疑問を感じていました。

 そして、終戦後、核戦争による人類滅亡の運命を予見し、核兵器反対の立場に転向して公職を追われました。

 ナチスドイツで液体燃料式ロケットミサイルA4ロケットの開発で中心的役割を果たしたドイツの科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、将来の月旅行の夢の実現のためにロケット開発を望んでいました。
 
資金と設備の提供と引き換えにナチスへの積極的な協力を行いました。

 開発されたA4ロケットはV2ミサイルとなって、ロンドンへの無差別攻撃に500発が撃ち込まれ、24000人の命を奪い、V2ミサイル製造工場ではロシア戦時捕虜とユダヤ人が強制労働によって16000人の命が奪われました。

 戦後、米軍に投降したフォン・ブラウンは戦犯として追及されることなく、NASAの開発部でに従事して、人類を初めて月面に着陸させるアポロ計画を実現させました。

 原子力もロケット開発も、おそらく、最初は人類の輝かしい未来のために想起されたものであったことは間違いがない。

 しかし、その実現には兵器であるとか、人命を犠牲にする方法の採用が、悲しきかな近道であるとされたのです。

 ナチスドイツはアウシュヴィッツなどの強制収容所に親衛隊医師を送り込み、優生学の名の下に、強制不妊や新人類創成を目標にした人体実験を行っていました。

 日本は中国東北部の731部隊を中心にに設置した研究機関で、細菌兵器や毒ガスの開発と人体実験を行いました。

 つまるところは、科学者の倫理観と科学の発展という天秤に常にかけ続けられているのです。

 これは、まさしく、ボーエンと川地の対立関係に相当します。

(4)答えのないエンドマーク

 戦争と科学の共犯関係は負の生産性という状態を作り出すのは、川地の立場がボーエンの立場を屈服させた時に起こるのですね。

 『フランケンシュタイン対地底怪獣』という映画では、最終的に川地の立場(ナチスのメソッドによる研究の継承)は封じられます。

 しかし、よく映画の結末を観察すると、ボーエン、李子、川地の3人の科学者の科学的な最終目標である「破壊された細胞の再生法」には到達することがないままエンドマークとなるのです。

 ならば、川地の立場をとっていればよかったのか? もちろん、観客はそうは考えないでしょう。

 これはとても難しい問題です。

 『フランケンシュタイン』の原作者、メアリー・シェリーはこの卓越した文明批判の小説に「または現代のプロメテウス」という副題を付しました。

 人類に天界の火を与えたプロメテウスは、ゼウスから罰を受けることになります。有名なギリシャ神話の一節です。

 生命の創造という「神の領域」を侵して墓を暴いて、つなぎあわせた死体から人造人間を造った、ヴィクター・フランケンシュタイン。

 彼の創造物である人造人間から配偶者を創造してほしいと請われて、それを断り、そのために、フランケンシュタインは婚約者と弟を殺害されます。

 フランケンシュタインは復讐するために人造人間を北極まで追いかけて対決し、命を落とします。
 現代のプロメテウスは、罰を受けることになってしまったのです。

 殺された、自然が生み出した婚約者の命もフランケンシュタインは創造することも、取り戻すこともできません。

 科学が共犯者として手を結んだ、戦争によって奪われた「個」の生命もまた、科学の力をもって、取り戻すことは永遠に不可能なのです。

 命を創造するものはなにか? 未来や幸福を創造するものはなにか?

 この答えを『フランケンシュタイン対地底怪獣』に表れた3つの視点から見つけ出すとしたら……

 戦争と科学の共犯関係のなかで、科学と文明から距離をおいて事件を見つめている。
 そんな李子の「愛情と生命」の立場にたった、プリミティヴな視点が、現代のプロメテウスの功罪を戒める理想であり、理論や概念ではない真の「倫理」の形なのかもしれません。

 『フランケンシュタイン対地底怪獣』には、単なる怪獣映画として終わらすことのできない重要なメッセージがあります。

 答えの出せなかった映画のエンドマークは、現代の私たちにその解決を突きつけているのかもしれません。

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