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エッセイ「窓のそと」

 薄暗くなった部屋に窓から差し込んでくるのは薄紫色の淡いたそがれの光だった。
 部屋の明かりをつけたとたんに、窓は一面鏡のように部屋と、そこにたたずむボクを映しだす。

 この鏡のような大きなガラス窓の向こうはもう見えない。
 電灯をつけるまでは窓の外の風景はボクをその光のなかに溶け込ませながら、確かにそこにあったというのに、世界は一瞬のうちに変わってしまったのだ。

 不思議なことだ。
 外と同じ光と仲よく部屋のなかにいるボクを迎え入れていてくれていたというのに。
 いまはもう、窓の向こうの風景は別の世界と変 わってしまったのだ。

 電灯をつけてはじめてボクは外の風景と溶けあっていたことを知ったのだ。
 電灯をつける前にはガラス窓隔てたこちらでボクは薄紫の光を顔に映していたことだろう。
 その立ちすくんだボク自身の姿を思い浮かべると、不思議と懐かしくさえ思う。

 たいせつなものを失うという瞬間はきっと電灯をつけるほどの瞬きなんだろう。
 その瞬間からすっかり見えなくなった窓の向こうが愛おしくなる。

 窓の向こうの淡い紫色の光と、そこに吹いていた静かな風の動き。
 そよ風は薄紫の光のなかで、そっと、きみの髪をゆらしていたことも、そのなかできみが微笑んでいたことも、電灯をつける前まではボクは知っていたに違いない。

 夏の暑い道端のバス停の標識のかげろうのなかで、白いワンピース姿が揺れていた。
 紅い葉がしげり、やがて黄色い、かわいた音とともにそれが舞いちるなかで緑のジャケットの裾をそよ風でゆらしていたその姿。
 いつしか、それは美しいひとつのしなやかなブロンズ像のようにボクの前にたたずんだ。

 それは愛しい心そのものだった。
 狂おしいまでに美しい心そのものだった。
 やさしくボクの身を案じつつ、はげまし、笑顔をたやさずに見つめていてくれたのだ。

 わずかに持ち上げた右手で、電灯をつけたとたんに、美しい心は窓の外の薄紫のたそがれの光のなかに消えていった。

 最後に見たものは、少し憂いに微笑むきみの横顔だった。

 電灯を消そう。
 そう、電灯を消せば、窓の外の光はボクの世界と同じになるのだと。
 そう信じずにはいられないほどに心はふるえている。

 ああ、きみはそこにいるだろうか。
 ああ、きみはいまも愛してくれるだろうか。

 かげろうにゆれていた、枯れ葉のなかでゆれていた、きみの笑顔に出会えるだろうか。

 ただ、ガラス窓を眺めてそっとボクは右手を差しのべる。
 紫色の光のなかで微笑んでいるきみの美しく愛おしい、けなげな心を想いながら。
 なつかしい心を思い出しながら。
 しっかりとその心を抱きしめながら。

 電灯をそっとつけよう……

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