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虚ろな星が瞬いて

「お祭り、案内して欲しいな」
美女と評判の担任教師から言われた思いがけない一言に心をかき乱され、俺は何も言えずにその場から逃げ出した。
そして夏休み、思いがけない場所で出合った彼女に、思いを打ち明けるが……?
一筋縄ではいかない、最初の一口だけちょっと甘くて、あとはとっても苦い青春譚。

 ――何かをしたい者は手段を見つけ、何もしたくない者は言い訳を見つける――
 そんな諺がどこかの国にあったな、と思いながら、俺は熱くなった水道の蛇口の栓をひねった。流れ出る生ぬるい水が徐々に冷たくなって、火照った頭を冷やしていくのが心地よかった。
 水を止めて顔を上げると、けたたましいセミの声が戻ってくる。早朝の校庭に人気は無く、まるで自分の独擅場に思えた。
「お疲れ様、永野くん。今日も早いね」
 ぎょっとして振り向くと、クラスの担任の教師が立っていた。この春うちの高校に赴任した新卒の先生で、名前は寿賀奈央さんという。俺はどぎまぎしながら彼女の顔を見た。
 色白の肌に、薄茶色のぱっちりした目が印象的な美人だ。ポニーテルにした腰まである薄茶色の髪が日に透けて、金茶色に輝いている。うっすらにじんだ汗で髪が顔の周りに張り付いているのが、何だかやけに色っぽかった。思わず目を伏せながら、俺は応えた。
「お早うございます」
 先生がにっこり笑って言った。
「毎朝自主練してて偉いね」
「いえ、そんな……」
 そこまで言いかけた時、背後から声が聞こえた。別のクラスの担任の声だった。寿賀先生は「それじゃ、またね」とだけ言うと、その男性教諭の方へ歩いていった。

 彼女が赴任してきた時は、学校中が大騒ぎになった。「こんなド田舎の高校に、あんな若くて綺麗な人が」と。春の終わり頃には、すっかり「学園のマドンナ」状態だった。
 色めき立つ同級生の男子たちを、俺は醒めた目で傍観していた。「どうせ手の届かない高嶺の花だろう」と思いながら。
 それに、彼女は確かに美人だったが、教師として優れているかというとそうではなかった。要領は悪く、授業もおざなり。いかにも、若い頃から顔のお陰で色々と大目に見てもらってきたのだろうと思ってしまう感じだった。雑談しているときも、何となく中身のない返事しかせず、目も少し虚ろな感じで、あまり良い印象を持てなかった。
 ところが、彼女の方は違ったらしく、ことあるごとに俺に声を掛けてきた。最初は自分の思い違いかと思ったが、友人から「お前だけやけに気に入られている」と言われ、意識するようになってしまった。
 そうすると、それまで欠点ばかり目に付いていたのが、だんだん他の皆が言う「良いところ」が見えるようになってくる。「要領は悪いけど愚痴も言わずに頑張っている」「セクハラじじいから嫌味を言われても、にこにこ耐えている」――。今では、視界に入ると目でずっと追うくせに、対面だと緊張して顔を見られなくなってしまった。「憧れ」と呼ぶのははばかられるような気持ちが胸を占めていた。

「今日も早いね」
 背後から聞こえた声に、俺はすぐさま振り向いた。思った通り、そこにいたのは寿賀先生だ。今日もいつものポニーテールに清楚なブラウスといういでたちで、にこにこと俺を見つめている。
 毎朝の朝練も、以前は週に2、3日すれば多い方だったが、ある朝声を掛けられて以来、日課になってしまった。本当はこの朝練のせいで日中は眠くて仕方なかったが、彼女と二人きりで言葉を交わせる唯一の時間を失いたくなかったし、失望されたくなかった。
「お早うございます」
 そう言ってお辞儀すると、いつもはすぐに校舎の方へ行ってしまうのだが、その日だけは違っていた。立ち止まったまま、世間話を始めたのだ。俺は少し戸惑いながら、当たり障りの無い受け答えをした。そしていきなり、地元の神社で毎年やっている夏祭りの話を持ち出してきた。
「〇〇神社のお祭りって、大きいんだってね」
「そうですね、この辺りではそれなりに、大きい方だと思います」
 俺がそう応えると、いつもの笑顔のまま、彼女は言った。
「永野くん、案内してくれる?」
 突然の言葉に、一瞬頭がフリーズしてしまった。なんと言ったらいいのか分からず、酸欠の金魚のように口をパクパクさせていると、登校してきたらしい生徒の声が聞こえてきた。その中の一人が、俺たちに気づいて声を上げた。
「寿賀先生、おはようございまーす。……あれ、誠人(まこと)じゃん、お前朝練かよ。この暑いのに、よくやるなあ」
 とっさに荷物を担ぎ上げて、クラスメートに駆け寄る。そしてそのまま、寿賀先生を置いて教室へと向かった。
 次の日から、朝練はやめてしまった。なぜだか分からないけれど、あの日から何となく、彼女を避けてしまうようになった。あのとき、舞い上がって何も言えないまま、逃げ出してしまったことが恥ずかしかったのかもしれない。
 毎日、彼女を見掛けるたびに、頭の一隅で「せっかくのチャンスだ」という声と、もう一隅からは「もう少し様子を見ろ」という声が、代りばんこに聞こえた。
 普段でも、できるだけ二人きりにならないように気を付けた。その日以降、挨拶ぐらいはすることがあったけれど、寿賀先生の方から声を掛けてくることは無かった。
 一度だけ、俺がクラスの女子と盛り上がっているとき、視線を感じて目をやった先で、こちらをじっと見ていたことがあった。
 そうこうしているうちに、あの言葉の真意を確かめられないまま、夏休みを迎えた。

「なんでこの暑い中、こんな格好で町中を歩き回らないといけないんだよ」
 俺が不機嫌に呟くと、母が大仰に溜め息を吐いた。
「なんでって、しょうがないでしょう。町内の持ち回りなんだから。いいじゃない、こんな恰好、一生に一度できるかできないかでしょう」
「一生しなくていいよ、こんな恰好」
 そう言いながら、歴史の教科書に載っている平安貴族そっくりの服を身にまとった自分を、鏡でまじまじと眺めまわした。木綿でできた白衣も袴も、既に汗を吸って身体に張り付いてきて気持ち悪い。ごわごわの麻の上着みたいなものも、何年も洗わずに使いまわされているのだろう、何だか変な臭いがする。
 母の口車に乗って、のこのこ母の帰省に着いてきてしまったのがいけなかった。
 母の地元では毎年、夏に大きな祭りが催される。何百年も続く歴史ある祭りで地域の観光の目玉にもなっているらしいが、地元の若者が都会に出て行ってしまい、年々人手が足りなくなって、今では近隣地域の学生バイト頼りになっているという。そのメインイベントである仮装行列に、平安貴族のコスプレをして参加することになったのだ。例年は、母方の本家の従兄が参加していたが、今年は仕事の都合が合わなくて参加できない、とのことだった。
(こんな恰好、学校の知り合いに見られたら、もう学校に行けなくなるな)
 ふと、寿賀先生の顔が脳裏をかすめた。
 ふてくされたまま、母とともに集合場所へと向かう。そこで待ち構えていた大人たちと挨拶を交わし、簡単な説明を受けた後、持ち場についた。
 杖のような物を持たされ、日差しの下、指示された場所でぼうっと待っていると、少し離れた位置に、巫女装束の女の人がやってきた。長い薄茶色の髪が、寿賀先生に似ている。確か、行列の中には、神楽を舞いながら歩く巫女役もいたはずだ。
 巫女さん役って、やっぱり美人がやるのかな、などと好奇心が頭をもたげ、ちらりと盗み見た。そしてその顔を目にした瞬間、心臓がひっくり返りそうになった。
 巫女装束に身を包んでいたのは、寿賀先生だった。その姿のあまりの神々しさに、俺は気を失いそうになった。

 俺のグループと寿賀先生のグループは、休憩のタイミングも場所も違っていて、近づくことすらできなかった。行列が進んでいる間中、俺は先生の方ばかり気になっていた。ここでなら、何の気負いもしがらみもなく、先生と向き合える、そんな予感がしていた。
 行列が町をひと回りして神社に着くと、お菓子とジュースのセットを配られて解散になった。境内の奥の本殿では、町内の人たちだけの飲み会が催されるというが、寿賀先生がそれに出る保証はない。俺は人ごみを掻き分けながら、先生を探した。
 屋台が立ち並ぶ参道にも、境内のどこにも、彼女の姿は無かった。もしかして、自分がいるのに気づいて、彼女も自分を探してくれているのではないかと期待していたが、そんな都合の良い話、あるわけがないのだ。
 諦めて母の実家へ帰り、私服に着替え、宴会場へ戻った。諦め悪く、母たちと分かれ神社の境内を探したが、やはり先生の姿はどこにも無かった。どうして、自分がこんなに彼女を探しているのか、もう答えは出ていた。
 奥の宴会場に戻ろうとしたその時、背後から声がした。
「永野くん?」
 聞き覚えのある声に、最初は幻聴かと思った。しかし、もう一度自分を呼ぶ声が聞こえ、慌てて振り向いた。
「寿賀先生」

「びっくりした。まさか、永野くんがいると思わなかった」
「それは、こっちのセリフです」
 宴会場の端の仮設のベンチに腰掛けて缶ジュースの蓋を開けながら、俺は言った。炭酸のはじける音がして、香料の香りが鼻を突く。冷たいコーラを一気に喉へ流し込んだ。
「俺、母方の実家がこの町にあって、それで、人が足りないからって駆り出されたんです。……先生は?」
 先生は、子供っぽく小首を傾げながら、缶のウーロン茶をちびちび飲んでいた。いつものポニーテールではなく髪を下ろしているせいか、少し幼く見える。なんだかいつもより心の距離が近くなったような気がしてドキドキした。
「私は、ちょっと違うかな。父の実家は隣町なんだけど、ここの神社と同じ系列? の大きい神社で、毎年そこの家の未婚の女性が一人、巫女役で参加することになってるの。以前は本家の従姉が参加してたんだけど、一昨年結婚しちゃって、それで去年も今年も、とりあえず私が」
「そうだったんですか」
 踊りだしそうな気持ちを抑えながら、俺は言った。夏休み前のあのやりとりを、先生は気にしていないようだ。偶然会えたことにも、意外なところでつながりがあったことにも、運命的なものを感じて、嬉しかった。先生は、どう思っているのだろう。
 しばらくの間、他愛無い世間話に花を咲かせた。気が付くと、片付けが始まっていて、いつの間にか、人の声が聞こえなくなっていた。慌てて振り返ると、明かりの点いたままの本殿には、自分と寿賀先生以外、誰もいない。恐らく、本殿と繋がっている社務所にでもいるのだろうけれど、荷物を置きっ放しにしている人もいるので、下手に動かない方がよさそうだった。
「静かですね。皆、どこへいったんでしょうか」
「あら、本当」
 そこでふと、今、寿賀先生と二人きりだということに気が付いて、急に緊張してしまい、頭が真っ白になった。思わず盗み見るように傍らの寿賀先生を見ると、彼女は平気な顔でウーロン茶をちびりちびりとやっている。
 二人きりの静かな空間で、目の前には満天の星空が広がっている。これ以上ロマンチックな状況は、そうそうないだろう。
「星、綺麗ですね」
 まるで、先生の薄茶色の瞳みだいにーー。そんなくさい台詞が思い浮かんだが、さすがに恥ずかしかったので飲み込んだ。
 先生は空をじっと見つめた後、少し困ったような顔で言った。
「ごめんなさい、私、あまり目が良くないの」
「え、そうなんですか」
 この星空を同じように見られないのは残念だが、チャンスは今しかない。そう思って、俺は一世一代の勇気をふり絞ることにした。
「あの、先生」
「なあに」
 緊張のあまり、口の中がカラカラになった。思わず生唾を飲みながら、俺は言った。
「俺、先生のこと好きです」
 口に出した途端、足元が崩れ落ちていくような、それでいて、何かから解放されたような気分になった。もしも、拒絶されたら……。そう思いながらも、目はまっすぐ先生の目を見つめていた。
 先生は、驚いたように少し目を見開いた後、にっこり笑って言った。
「ほんとう、嬉しい。ありがとう」
 俺は、夢見心地でその言葉を反芻した。と、次の瞬間、いきなり先生が顔をこわばらせた。そして、どこかそわそわした様子で、こちらを見ずに言った。
「ごめんなさい。私、ちょっとお手洗い」
 顔をこわばらせたまま立ち上がると、社務所の方へ一目散に走っていった。そして、戻ってこなかった。

 新学期が始まった後、寿賀先生が俺に話しかけてくることはなかった。かといって、俺から話しかけて嫌な顔をするわけでもなく、強いて言うなら、単に「興味が無い」といった態度。ずっと中断していた朝練を再開したが、彼女と顔を合せることもなかった。
 わけも分からぬまま、夏休み前から、あの祭りの夜にあったことまで、全部自分の夢だったのだろうかと訝しみつつ過ごしていたある日、その答えが突然目の前に現れた。
 放課後、校舎裏の自販機にしか売っていないジュースを求めて人気のないところを歩いていると、話し声が聞こえてきた。男の方は誰だか分からなかったが、女性の方は寿賀先生らしかった。思わず聞き耳を立てると、先生と相手の男がお互いに忍び笑いをしながらこんな会話をしていた。
「先生、今週末は実家に帰るんですか」
「うん。〇〇くんに会えなくてさみしい。……〇〇くん、今日、良い匂い」
 うなじの辺りの毛が一気に逆立って、勝手に顔が真っ赤になった。声の似た赤の他人かも知れない、むしろそうであってくれ、と念じながら、物音を立てないようにそっと声のする方を覗き込んだ。女の方は後ろ姿だったが、明らかに寿賀先生だった。
 目の前が真っ暗になったような気がした。とっさに飛び出していきたい衝動に駆られたがぐっとこらえて、その場から逃げ出した。
 夏休み前のあの瞬間、自分が逃げなければ、こんな思いをせずに済んだのかもしれない、と後悔の念に襲われた。

「どうした、誠人。おもちゃとられた幼稚園児みたいな顔して」
 近くで待っていた友人が、俺を見て言った。
「別に」
 ついそっけなく言ってから、思い直して尋ねた。
「……寿賀先生ってさ、彼氏いるのかな」
「ああ……。彼氏はどうだか知らないけど、確か今は、3年の『ホスト先輩』にお熱らしいな」
 『ホスト先輩』とは、さっき校舎裏で先生と話していた男子のあだ名だ。何股も掛けていて、彼をめぐって女子がつかみ合いの喧嘩をした、なんてことも一度や二度ではないという。胃の中にヘドロを流し込まれたような気分になりながら言った。
「付き合ってるわけじゃないの?」
「さあ、どうだろう。できてるって言ってるやつもいるけど、確かホスト先輩の本命って、S女の増古って女らしいからなあ。ホスト先輩のコレクションの一つではあるかもな」
「……てか、『今は』って?」
 すると、友人が噴き出した。
「お前、知らないの? あの先生、女子に『キャバ嬢』って呼ばれてるんだよ。気に入った男子には、片っ端からちょっかい出してるって。多分、俺らの学年の男子の半分くらいは、あの先生とデートしたことあるんじゃないかな。いっときお前にちょっかい出してたのは、単にお前が自分にそっけなかったのが気に入らなかっただけだったみたいだけど」
 俺は、彼女の綺麗だけれどどこか虚ろな薄茶色の目と、あの夜の美しい星空を思った。

 それから三カ月ほどして、寿賀先生は退職した。はっきりとした理由は明かされなかったが、噂では、彼女を辞めさせるようにPTAから圧力が掛かったらしい。
 夏休み前のあの時、逃げ出した自分の直感は正しかったのだろう。世の中には、全力でぶつかってはいけない相手もいるのだ、ということを身をもって学べた気がする。

 あれから何年も経つが、今も時々、彼女とよく似た目をした人と出合う。あの、虚ろにまたたく星のような瞳に。

fin.

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