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「主張」から離れるとは

庭の花を撮影していたら来訪者。
近所で見かける猫の「チビ」。
名付け親は、チビをいつも世話してるおじさん。
経緯はよくわからないが、毎日おじさんが世話をしている。
おじさんとは、たまに会話をする間柄。
孤独を好んでいるらしく、火沢と似ているらしい。
火沢が会話するのは年配の方ばかりで同世代すらほとんど関わりがない。
それで困ることもないので気にならないが。

しかし、人というのはなかなかわからないもので世代差というのもあるだろうが、思想的な違いに驚かされることもある。
自分と同じタイプと思ったら、ドキッとさせられてしまう。
難しいものだ。
特に相手を論破したいと思うわけではないが
国のあり方を議論すると、どうしても思うことがある。
それはみな、火沢も含めて「私の日本」になるということだ。
「私たち」ではない。
世の中には分けることの出来ないのものがある。
1000円を半分に分けられるが命は分けられない。
国の政策も同様。
コロナの対応で、国民の足並みが揃わなかったらまずいよねって、もう過去の話になりつつあるけど。

主張ってなんなんすか?
人の想い、想念って何なんだろう…
みな「私の日本」から離れられないよね。
こうあるべき。
でも、それって分けられない。
民主主義って素晴らしいと思うけど、結果「私の日本」合戦じゃんって、政治家の演説聴いてると虚無感に襲われるの。
マジョリティが正しいって、アメリカではあれ程分断してるの見て票の差で、この国のありよう決めるの、もう無理なんじゃないかって…
負けた人達どうすんのって…

多様性って何?
本当に、この国、多様なの?
どこからどこまでが多様性なの?

むしろ多様だから苦しむのかな?

主張することに火沢は少し疲れている。
相互理解は必要だけど「分かってもらいたい」ですら力の方向性としては暴力に属するのかも知れない。
二元論から脱するにはどうしたらいいのだろう。
私たちは私たちを守れるのだろうか。
多様な価値観の中で、私達は私たちをどこまで信じられるだろうか。

頭を空っぽにしたら、いつもは逃げてく野良猫の「チビ」が今日は逃げなかったという、
それだけの話。














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