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ryuchellの訃報を受けて。我々は批判対象を線引してないだろうか?

昨夜、ryuchellの突然の訃報に驚いて一夜明けた。
火沢は芸能界にあまり関心がないが、ryuchellが環境問題に感心を持っていたり、若者の意見に真摯に耳を傾けているのをテレビで見ていたので個人的には好感を持っていた。
スマホを買ってまだ間もない火沢だがヤフーニュースを見て、年配の人の価値観もなんとか咀嚼しようとする姿勢や反対者に対して怒りより気遣いの言葉をかけるのにも過酷な人生ゆえ、何とか分断を乗り越えるため、自らの姿勢を変えようと(自らを、また理解してもらうため)しているようにも見えた。
それ故、無理をしてしまったのではないか、心に負担をかけてしまったのではないか、本当の自分になるということに、罪悪感を抱え過ぎてしまったのではないか、色々考えてしまった。
勿論、誹謗中傷自体が度を超えているし、社会問題ではあるのだけれど、見るべきところは本当にそこだけなのだろうか?

朝、ヤフーニュースを読むとryuchellに対する中傷が止まないとして怒りのコメントが散見された。
その気持ちは分る。
ただ、そのコメント発信者は誹謗中傷された経験を持つ人が多い。
それ故、ryuchellの気持ちを我が事のようの思うのも分かる。
わかるけど…
その怒りにほんの少し違和感を持ってしまったのだ。

このタイミングで不謹慎かもしれないが、ある考えが頭を過ぎった。

「我々は批判対象を自らの価値観で線引してないか」と。

今回ryuchellに追い打ちをかけようとする人は、流石に多くはないと思う。
でも、これがパワハラやセクハラ、不倫、体罰、失言だったなら…
批判を向けられてしかるべきとされる人間には我々は容赦ない。

今回、ryuchellの無念さのために怒りを顕にする人たちは彼ら自身、誹謗中傷したことがないのだろうか?

ryuchellと不祥事を起こした芸能人、政治家を混同してはならないというのは分かるし、火沢だって同列に置きたくはない。

でも、これまでryuchellを批判してきた人達だって、自分の信念や価値観に基づいて発言してきたのでは?
それは確かに傍から見れば偏った発言に過ぎないのかもしれないけれど…
でも俺はね…
どうも批判を止めようとか、社会を変えなければと、「強く発信すること」も、違和感を覚える。

結局、批判対象を線引することで、自分は正しいと思いこんではいないか?

政治家だったら何を言ってもいいのかな?
そこを「分けよう」とすること自体、なにか都合が良すぎる気がする。

結局何が言いたいかというと、皆だってどうしても受け入れられない価値観があると思う。
当たり前だよね?
だから諍いも起こすし反発もあるしさ…
でも、案外人はそれを前提にしないんだ。

自分も「大切な物を守るため」誹謗中傷して、そして、されるんだよ。 
汚いとか、いけないとかじゃなくてさ。
そういう事実を受け止めるのも大切な事。
その前提を無視して単純に批判は良くないというのは却って分断を招くと思っている。

ryuchellはそこを理解して発言できる稀有な人間だった。
改めて惜しい人を亡くしたな、と。
ご冥福をお祈りします。








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