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PASSION 自立と自律 パラグアイ、最後の聞き取り

 ピラポ移住地からエンカルナシオンへ戻り、ブエノスアイレスの文野さんが紹介してくれていた日本食レストラン「広島」のオーナー・小田俊春さん(67)に私は話を聞きに行った。

パラグアイで生きること~自分に克つ・小田俊春さん

 小田さんは、1942年に広島県で生まれ、56年14歳のときに家族でパラグアイへ移住した。
 戦後の不況が続き、仕事もない。4人の子どもがいた小田さん一家は一家心中を考えてしまうほど、追い詰められていたという。
 「南米に移住するから一緒に行ってくれ」
父親が切りだした。家族で移民となるには、両親と15歳以上の子どもが3人いなければならなかった。しかし、小田さんは当時14歳。本来なら条件に満たない年齢なのだが、身長160センチと体格が良いため特別に移民となることを認められた。

 神戸港から移民船・ぶらじる丸に乗船し、45日ほどかけてアルゼンチン・ブエノスアイレスへ。ぶらじる丸は真新しい船でペンキの匂いがきつかったうえに船酔いがおさまらず、ベッドに横づけの日々が続いたという。
辛い思いをしながら到着したパラグアイ・エンカルナシオン。パラグアイ最初の日本人移住地であるラ・コメルナからエンカルナシオンに転住した人、先輩移住者たちが歓迎してくれた。それまでは食べ物もろくに口にすることができなかったが、彼らは握り飯や漬物をたくさん用意してくれていた。あの味は今でも鮮明に覚えていると小田さんは語る。
 未開のジャングルに入る前、テント生活をニヵ月間ほど送っていた。雨が降れば、やしの葉をたたんでテントの上にかぶせた。それでも水が内部へ忍び込んでくる。寒さで凍えた。飲み水もない。しかし喉の渇きはどうすることもできない。川の水を口にいれるがアメーバ赤痢となって体を襲う。日本から持ってきた薬も効かない。亡くなった人も少なくない。
 先住民が身ぶり手ぶりで薬草を教えてくれたことにより、生き延びることができた。
 命の危険は移住者の宿命だと悟る。移住地に食うか、食われるか。泣きごとなんて言ってられない。
 南米の地で、パラグアイで生きるんだ!!
 心を強くした。
 “国土の狭い日本で働くよりも3倍儲けることができる”
 こんな文句で政府は移住を盛んに奨励した。「診療所、学校、道路もきちんと整備されている」と言われていたのに、来てみたら何もない。
家はもちろん、家財道具も土地さえも、日本ですべて処分してきた。帰国したってお金がなければ何もできない。
 だから、ここで生きていくほか、選択肢はなかったんだ。

 自分たちの土地となる地へはテントから4キロも離れていた。3町歩・約9000坪という広い土地を開拓するだけの日々が続く。大木を切り倒すにしても、斧しかない。3日がかりでようやく倒した木もあった。木を切り倒したら、50日くらい乾燥させて焼畑へ。そこからようやく作付に至る。
開拓に暮れる間はお金が入ることは皆無に等しかった。日本から持ってきた服を食糧と交換し飢えをしのいだ。半年ですべての服がなくなった。
ただし、裸足だけは避けた。切り株が残る開拓地は、素足ではとても歩けない。身にまとうシャツは小麦粉が入っていたような袋を解いて作ったという。
 タンパク質を採らないと体が動けなくなってしまうから、蛇やトカゲ、アルマジロ。ありとあらゆる野生動物を食べた。土人が教えてくれた芋の一種・マンジョッカにはだいぶ助けられた
 移動手段は歩く以外、馬だった。30キロの道のりを一日かけて、農作物を売りに出かけたのだが、パラグアイ人は買おうとしない。換金作物にならずに悩んだ。
 「どんなことをしても生きていくしかない。これはサバイバルなんだ」
 自分に言い聞かせた。
 苦労に苦労を重ね、借金にも泣き、日々は過ぎていった。

 夢中で生きているうちに、3町歩から75町歩へと所有する土地は広がっていき、人を雇うこともできるようになった。生活の安定が図れるようになってきた。
 農業を辞めたあと、レストラン「広島」の建っている土地をペンションとすることで生計を立てていた。
 小田さんは高校へも大学へも行けなかった。小説を読むなどして言葉の勉強をしていたが、周囲の会話についていけないこともあった。それはずっとコンプレックスとして残っている。自分の息子には大学に行ってほしかった。しかし、
 「日本に行きたい」
 息子の発言に耳を疑った。なぜ?デカセギブームに乗じてではない。日本で何をするんだ?
 「料理の勉強をしたい。机に向かう勉強はしたくない」
 息子は神奈川の老舗料理店で4年間みっちり修業をしてきた。ドイツでの修行も含めて7年間自国以外で料理に励んだことが、日本食だけでなく、オールマイティに料理をこなせる腕を磨くことになった。日本食だけが作れても、パラグアイでは話にならない。
 帰国後、息子は自分の店を開いた。それがこの「広島」なのである。息子の大学費用として貯めていた資金は、レストランの建設費として充てられることになった。
 小田さんも店の宣伝に尽力した。客の出入りが一晩でたった3人の時期もあったという。パラグアイ人は贅沢をしない。価格パフォーマンスも大切である。安いメニューも生み出して、少しずつ日本食を浸透させていった。
開店13年目。夜が更けていくにつれ、どんどん客が増えていく。世界共通のガイドブック『ロンリープラネット』にも記載されているほど、「広島」は有名店に成長した。



 小田さんはパラグアイ日本人会連合会の会長でもあるが、これに関する仕事でお金は一切もらっていない。すべてボランティアだという。
 「気持ちの問題だよ」

 これまでの人生で様々な経験を積んだ。飢えにおびえ、借金もした。痛い目にはたくさんあった。自分のことは自分でやるということを学んだ。
パラグアイ全体の日系人はおよそ6000人。入植した当時の気持ちを思い出してほしい。今、人間としての共同意識が薄れてきている。日系社会であっても、外国にいるということを忘れてはならない。パラグアイ人たちがどれだけ日本人に親切にしてくれたか。日系人をここほど大切にしてくれる国はない。感謝の気持ちを持って、パラグアイに還元していくことが大切だと思っている。
 “自立と自律”
 今後、パラグアイの日系社会で必要なことではないかという。
そして自分に克つということ。人生は自分のもの。誰かが何とかしてくれるわけではない。自分で切り拓いていくものなのだ。
 そう小田さんは教えてくれた。

 数日前、ペルーの大森さんにエンカルナシオンに行くとメールで伝えておいたら「エンカルナシオンには、小田さんというヤクザみたいな人が野球を仕切っていて…」と返信があった。小田さんと大森さんは知り合いだった。野球の世界は広いようでとても狭い。
 「僕は子どもが好きだから、中型のオンボロマイクロバスを購入して、子どもたちを野球に連れていった。しごいたよ。当時はかなりきつかったと思うけど、『あの時、監督からしごかれたのが良かった』って言ってくれる。20年くらい前の話だけどね。
 日系社会の子どもたちが日本へ行くと、現地はホームステイに呼びたがるんだよね。歓迎される。パラグアイの日系の子どもたちは挨拶がきちんとできるし、日本語も話すことができる。それがいいみたいだよ」
 私は、フミエさんの言葉を思い出す。
  日本にデカセギに行っている日系人たちが相次いで解雇されるというニュースが飛び交っていた2008年の暮れ。
 「ピラポからもデカセギに出ている子たちがいるから心配したのよ。でも、パラグアイの日系人たちは解雇されなかった。真面目に働くし、日本語を話せるから。今の日本人以上に“日本人”なのね」

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