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エッセイ「汽車に揺られて八木町へ」

 昭和40年代、私が幼少の頃、お盆やお正月、田植えや稲刈りの時期など、1年に何回も京都府船井郡八木町の祖父母の家を訪れた。
 まず、市電で国鉄京都駅へ行く。烏丸丸太町の停留所は、道路の中央分離帯に敷設してある。細長いコンクリートの島状のそれには柵もなく、車が何かの拍子で突っ込んできたらどうなる。当時はそんなに多くの通行量ではなかったかもしれないが、今から考えると何と危険なところだったかと思う。そんな停留所で、早く電車が来ないかとわくわくしながら待っていた。
 京都駅に着くと、次は山陰本線の汽車に乗る。丹波口駅、二条駅、花園駅と車窓から瓦屋根の家々を見送る。嵯峨駅を過ぎると人家がだんだん少なくなり、竹林に入っていく。線路の両側ぎりぎりのところまで竹が生い茂り、迫ってくる勢いだ。
 汽車は、カタンカタンとリズムを刻んで力強く進む。保津川沿いの渓谷をぬって、トンネルを幾つもくぐって、保津峡駅、馬堀駅へと走行する。トンネルに入る手前で蒸気機関車が警笛を鳴らす。乗客は一斉に、灰色の煙が車内に入らないように素早く窓を閉めた。 トンネルを通過するとき、地鳴りのようなゴォーという振動が全身に伝わってくる。両手で両耳を覆う。手を離しても、ワォンワォンという響きが耳の奥に残る。車両の天井に取り付けられた小さな扇風機が傾きかげんに回っていて、こちらを向いたときだけ涼しい。再び窓が開けられると、今度は強風が顔面に当たって体がのけぞるぐらいだ。
 窓から下をのぞけば保津川が目の前に開けて、保津川下りの船頭さんや観光客の姿も見える。こちらの汽車に向かって手を振っている。私も手を振る。旅の途中の挨拶のように。新緑、紅葉と四季折々に違った色合いになる渓谷は美しく、この汽車に何度乗っても身を乗り出さずにいられない。保津川下りの舟が通りかからないと物足りなさを感じ、渓谷が見えなくなると「ああ、おしまい」と高揚感がしぼんだ。
 亀岡駅、並河駅、千代川駅あたりは、のどかな風景が続く。田んぼが広がり、稲も旅の途中の挨拶をしてくれているように揺れている。
 次が八木駅だ。大堰川のうねりが見えてくる。八木駅に降り立ち、陸橋を渡って改札口を出ると、ボンネットバスが待機している。このバスが祖父母の家の近くまで連れて行ってくれる。

 藁葺き屋根の家は、私が住んでいる路地のどんつきの家とは違って、広々としていた。土間には、かまどがどっしり据えられている。畳の部屋は田の字型に四つあり、ふすまで仕切ることもできるし、開け放つこともできる。かくれんぼし放題だ。お風呂と便所は母屋から離れた屋外にあり、小屋には鶏や牛もいた。
 縁側に立つと、山のふもとまで広がる田畑が見渡せる。春には、目の前の田んぼにレンゲが咲き誇っていた。レンゲ畑に座り込んでいると、紫色に吸い込まれて別の世界に連れて行かれそうなくらいで、幻想的な風景に圧倒された。
 夏には蚊帳の出番となる。祖母が蚊帳を吊ろうと広げたとき、その端っこにくるまってみたら、さらさらの麻の肌ざわりが思いのほか気持ちよかった。蚊帳の内側は不思議な安心感が得られるような空間だった。
 自分の家にないものは何でも珍しがって、祖父母のすることをそばでじっと見ていたものだ。
 祖母は、かまどでご飯を炊いたり、五右衛門風呂を沸かしたりするとき、薪をくべる。私も一緒にしゃがむと、細い枝を投げ入れさせてくれる。ぱちぱちと音を立てながら燃えるのが不思議で、「もういいで」と言われるまで止まらない。祖母をまねて竹筒でふうっと息を吹き込むと、炎が一瞬大きくなる。この炎の動きを見たくて何回もやってみた。
 祖父が、卵を取りに鶏小屋に入るとき、私も入れてもらう。足元に寄ってくる鶏はちょっと怖かったけれども、おじいちゃんと一緒なら心強い。卵は生温かい。鶏一羽を小屋から出して用水路でつぶすこともあった。首根っこを押さえて、なたを振り下ろすと、鶏の首が落ちて血が噴き出す。赤い色が流水に乗っていく。羽をむしった後の工程は見た覚えがないが、すきやき用のお肉として食卓にのり、家族みんなで鍋を囲んだ。
 夏野菜の収穫で祖父のお供をするときは、麦わら帽子が必需品だ。照りつける太陽を麦わら帽子のツバで遮らないと、畑には全く影がない。祖父も大きな麦わら帽子をかぶり、キュウリやナスの収穫をする。「食べてみ」と、私の目の前にトマトが差し出された。果肉にかぶりつくと、トマトの果汁とタネが畑に滴り落ちる。トマトの甘さと青臭さが口の中で混ざり合う。次はスイカだ。畝に横たわるスイカの表面を指ではじく祖父。私もまねをして、ポンポンと鳴らしてみる。祖父がこれと思ったスイカを持ち帰る。黄色い果肉の小玉スイカ、その半分をひざにのせて、スプーンですくって食べる。しゃりしゃりと砕ける果肉にはたっぷりの甘みと水分が詰まっていて、喉をするする通っていく。
 夜になると、縁側にぼんやり光るものがやってきた。私が動けば光の群れとぶつかりそうで、じっとしていた。まとわりついてくるようだ。光の線が残像となり、暗闇にオレンジ色の美しい模様があらわれた。うっとりする。蛍を初めて見たときの光景は、目の奥から消えることなく、ずっとはっきり残っている。
 ある日、祖母が「一緒に遊び」と集落内に住む私と同い年の女の子を連れてきた。妹といとこたちがじゃれ合うそばで、年齢の少し離れた私が一人でいるのが寂しそうに見えたのだろうか。私は恥ずかしくて何もしゃべれなかったのに、女の子は何回も来て「あそぼ」と言ってくれた。私は頑なに首を横に振り続けた。どうして、あの子と祖母の思いに応えられなかったのだろう。申し訳なさが今も胸の内にある。
 藁葺き屋根の家からあぜ道を歩き、木々の茂みを通り抜けると、緩やかな流れの川に行き着く。いとこ一家と川遊びに繰り出すこともあった。あぜ道に大きなガマガエルが飛び出してきたときは、通せんぼされてにらめっこの状態になった。恐ろしくて、またぐことも、よけて通ることもできず、その道を早くあけてと、にらんで訴えて、どこかへ行ってくれるまで待つしかなかった。
 川に着くと、ゴム草履で浅瀬をジャブジャブ歩いたり、浮き輪で流れにのったりして、涼をとった。川の水が冷たく感じ始めた頃、祖母が風呂敷包みを持ってきてくれた。重箱には、おにぎりがいっぱい入っている。「ちょうどおなかすいたとこや」「何が入ってる?」と口々に言いながら、手が伸びる。塩がほどよくきいていて、また元気が出てくるおにぎりだった。
 いとこ一家と花火大会にも出かけた。八木町の花火大会は、戦没者の慰霊と町の活性化を願って昭和22年に始められたそうで、会場は祖父母の家から車で10分ほどの大堰川の河川敷。叔父が、軽トラックの荷台に子供たちをひとまとめに乗せて連れて行ってくれた。風に吹かれてみんなでキャッキャと騒いでいるうちに、車はガタガタ道を進んで会場に到着した。斜めになっている堤防の好きなところに座る。大堰川の向こうから、ヒュルヒュルと打ち上がる音が聞こえ、大玉が頭上できらびやかに開いた後、ドーンという大きな音がして、体じゅうに響く。終盤には何連発もの大玉が上がってクライマックスとなり、夜空が明るくなる。地上の花火と堤防に座っている自分との距離が縮まって、花火に手が届きそうな一体感が心地よかった。

 母と蛍の思い出話をしていると、蛍を捕まえてはネギの穂先に入れて、揺らしながら家に帰ったという母の子供の頃のエピソードが聞けた。ああ幻想的なこと。
 畑でかじった祖父のトマトの味がいまだに忘れられないのは私だけではなく、母も「あの昔のトマト、今はなかなか置いてないなぁ」と言う。みずみずしくて、甘い中にもつんとする青みが残っているトマト。今は、季節を問わずさまざまな品種のトマトが店頭に並んでいて、これはどうかなと食べてみるが、どれも違う。道の駅で買うトマトが割と近い味だけれども、やっぱり満足いくものではない。ある日、気づいた。随分大人になってから、やっと気づいた。陳列棚のトマトには、あの夏の日差しと土や葉っぱの匂いがない。あの夏、トマトを収穫した畑にあったもの全部ひっくるめて、おじいちゃんのトマトの味だったのである。

 双子の妹たちが生まれるまでの5年半の間、祖父母にとっての孫は私一人。それはそれはかわいがってもらったと、母から何度も聞いた。白黒のスナップ写真もたくさんあり、おじいちゃん、おばあちゃんの愛情を独り占めしていたようだ。初孫の役得でうれしい。私には蛍やレンゲの強烈な思い出があるが、妹たちは覚えがないと言う。おじいちゃんと釣りをしたとか、さつまいも掘りや柿狩りをしたとか、そういう思い出はあるという。私にはそんな記憶はない。「何それ?」私のほうがたくさん思い出を持っていると思っていたのに。「私らが小学生の時、お姉ちゃんは高校生やったから、もうついてきいひんかったやん」。そうか、しまった。そこは盲点だった。

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