チャリティーランを始めたきっかけ〜なぜ子供への教育支援をするのか〜
趣味が高じてランニングサークルを立ち上げたら、ありがたいことにたくさんの方が参加してくれるようになった。
お喋りしながら皇居ランニングをしたり、みんなでリレーマラソン大会に出場したり。
本当に楽しくて幸せなコミュニティだと思う。
そしてこの春、初めての有料主催イベントとしてチャリティーマラソンを企画している。
目的は子供の教育支援をしている団体に寄付をすること。
コミュニティ作りでも、イベントの告知でも、にこにこ笑って「楽しいよ!」と呼びかけていた方が、人は気軽に集まりやすいのかもしれない。
「チャリティー」に対する思いって人それぞれ様々なものがあるから、企画する段階でものすごく勇気が必要だった。
告知する時は胃がキリキリしたし、実際にヒリっとする反応もいただいた。
だからこそ、この活動を始めた経緯を書き残しておかなければと思った。自分の大切な気持ちを忘れないためにも。
↓以下、性加害の話や障がいについてなど書いています。デリケートな話になるので、あくまでも自己責任でお願いいたします。
振り返ってみると、可哀想なくらいに自分に自信のない子供だった。
親の後ろに隠れて「誰とも目が合いませんように」と、そんな風にいつもビクビクしていた。
そういう態度はきっと外に漏れ出て、側から見ると「弱そうな子」という印象だったんだと思う。
初めて痴漢に遭ったのは小学生の時。本屋さんで2階の漫画コーナーへ行く階段を登っていると、若い男が付いてきた。
不審に思ったけれど、たまたまタイミングが同じだったのかな?と本を選んでいたら、すれ違いざまに手の甲でおしりを触られた。
ざらりとした布越しの皮膚の感触に、恐怖で足がすくんだ。
性的なことを完璧に理解していたわけではないけれど、その男にドロドロとした悪い感情があることはなんとなく感じ取った。
そのドロドロが「性的な搾取」ということに気付いたのは、もっと大きくなってから。
男性教師が必要以上の距離感で近付いてきたこと
満員電車で体を触られたこと
駅を歩いていたらすれ違いざまにスカートの中に手を突っ込まれたこと
電話ボックスで電話をしていたら男が無理やり入ってこようとしたこと
頭痛の検査で医師に「診察だから」と股を触られたこと
男子高校生の集団に目の前に立ち塞がれて容姿の得点をつけられたこと
保険加入の健康チェックで「タトゥーが入っていないか確認する」と服を脱がされそうになったこと
不本意に体を触ってきた相手に知的なハンデがあるから見逃してあげなさいと言われたこと
道を歩いていて車の中に引き摺り込まれそうになったこと
警察を呼んだこともあるけれど、気怠そうな男性警察官に「ナンパのしつこいやつだよね?」と取りあってももらえなかった。
親に話しても「派手な格好をしているあなたが悪い」と責められた。
夜道を歩く女は知らない男に声をかけられてもしょうがない。
短いスカートを履く女はレイプされてもしょうがない。
全ては自衛をできない女が悪い。
平成のど真ん中を女として生きる私は、いつのまにか諦めることが上手くなった。
けれどそんな考えが変わったのは、娘が生まれた時。
生まれたての弱くて儚い赤ん坊を見ていたら、可愛いという感情よりも「この子が死んだらどうしよう」という恐怖に苛まれた。
住む環境を整えて
いつも清潔な服を着せ
栄養を考えた食事を与えた
よちよち歩く後ろをついてまわり、この子を生かすことだけに全てを注いだ。
娘はやがて赤ん坊ではなくなり、私が初めて性加害を受けた年齢になった。
こんなに細く小さく力の弱い小学生の女の子に、果たして自衛をする方法なんてあるのだろうか?
そもそもなぜ、被害を受ける側ばかりがこんな思いをしなければならないのだろうか?
長年感じていた怒りの先に生まれたのは、当たり前のような疑問だった。
そこで興味を持ったのが「なぜ犯罪は起こるのか」ということだった。
私にとって「犯罪」とは遥か遠くの世界のもの。
物を盗ったり、誰かに暴力を振るったり、人に迷惑をかける人の気持ちが全く分からなかった。性犯罪についてはさらに理解に苦しんだ。
そんな時出会ったのがこちらの本↓
児童精神科医である著者が、少年院で出会った青少年たちの実際の事例を紹介しながら、なぜ少年たちは犯罪を犯すに至ったのか、どうしたら彼らが犯罪者になるのを防げるのかまでの見解を綴っている。
生まれつき世界が歪んで見えている彼ら彼女らにとって、人とのコミニケーションはとても複雑で、手助けが必要なこともある。
発達にハンデがある少年による犯罪が多いこと、その中でも性犯罪がとても多いことは、この本を読んで初めて理解することができた。
生まれ持った特性、家庭環境を変えることはできない。
けれど、少しでも生きづらさを感じている子供を幼少期に掬い上げることができたなら。
社会全体が手を差し伸べることによって、彼らを犯罪そのものから遠ざけることができる。
「手を差し伸べる」という表現が的確かは分からない。もしかしたら、相手を下に見ているのではと不快に思う人もいるかもしれない。
そう捉えられることも仕方のないことだし、側から見たらそれはただの驕りなのかもしれない。
「弱者」という言葉は、けして人を見下すためにあるものではないと私は思う。
助けを求めることすらできない人が異議を唱え、議論に参加できるよう、動ける人が手を差し伸べることはけして偽善ではない。
弱いものと強いものが混ざり合う世界に必要なのは、それぞれが自分の立場を理解して、議論し続けることだと思うから。
幼くて、弱くて、声を上げることができなかったあの頃の自分を「怖かったね」と抱きしめてあげたくてたまらない。
でもそれをすることはもうできないから、私はずっと手を差し伸べる場所を考え続ける。
そしてその手は娘へ、さらにはチャリティー活動から未来へ繋がると信じている。
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