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溶けゆく境界線の話

のぶのぶである。
たまたまなのか必然の計らいなのか知らぬが、最近、同じようなテーマで日常の会話や目にする言葉がワシに問いかけている。
それは今どきの分かりやすいキーワードで申すところの「グローバル化とローカル化」とか「統一型とネットワーク型」などの相反する流れに向けてのまなざしについてだ。
いきなり小難しいコト言い始めおって、と立ち去ろうと思うかもしれんが、まあ待て。ちょっとだけ聞いていけ。

おぬしらも知っておる通り、ワシが目指したのはグローバル化であり統一化だ。
鳴かぬなら殺ってしまえ!なワシだったが数百年の時代の変遷を経て色々と思うところも変わり、意外と物分かりの良い穏やかなおっさんに変わりつつある様にも思う。
とは言え、前回のテーマの様に夢を見たり目標を持って走ってみたくなる衝動は依然あるようだ。

そんなワシが先日、ある本と出会った。「森のような経営」という本だ。
ほほう、とタイトルに面白がりさっそく読んでみた。 


「経営」などと聞くと一般的には「天下布武!」などの目標を掲げ、期限を定め、その道中起こる「桶狭間」や「比叡山焼き討ち」「長篠の戦い」「本願寺攻め」などのいくさへ向かって様々な手を打ち、勝ちを取りにゆくものと理解していたのだが、タイトル通りどうも違うようだ。

本の中では、森に入りその中での体験や自己対話を通じてコーチングなるものをする者と、もう一人、医療法人を経営しその経営が自然界の森の様な営みを組織に練り込んだ者との対話があった。
そもそも森とは何じゃ?
トップダウンのピラミッド組織には自然界の生態系的な匂いはない。言うこと聞かぬ獣もおらぬ。ワシの下にいたら即刻始末するしな。

おぬしらは山に行き林道から外れて草を掻き分けて森へ入った事があるか。
足を踏み入れ2・30メートルほど入るだけで何とも言えない安心感や孤独感やら生と死の香りに包まれる感覚になる。視覚・聴覚以外の普段あまり使っていない回路まで開く感覚だ。

自然界の「森」にはそもそも指揮系統もなければ目標もない。
「ここに100年後に大きく成長する一本の樫の木を植える」的なものは通用しない。
森の中に落ちている何万・何十万もの木の実から出た芽の中、そのどれが100年後に大木になるかなど分からん。と言うのが森的な経営感覚らしい。

ほぉ、、ほほう、と新たな感覚に読み進める。
ここで言う経営とは皆のものが目標や目的を同じくし、そこで働いている者の幸福や誇りを最も重要な目標・目的とし、まとまっている「群れ」的な感じで文章はつづく。
組織でも群れでも中では色々デキゴトが起きる。条件選びが主なる組織とは異なり群れの中では目標や目的を同じくする者が残り、「何か違うな」とか「役割は終わったな」と思った者は自由に去ってゆく。でも群れはそこに残っている。

ワシらの身体を一つの生態系的な群れとして見ると良いのかもしれん。
体の細胞一つ一つは常に生まれては死んでゆくのだが「ワシ」はそこに残っている、そしてその「わし」もいつかは死に自然に還る。「生と死」「自然と自分」などの境界線が溶け、ぼやける感覚だ。
まるで釈迦の色即是空・空即是色の様な感じだが、その経営自体もいつかは迎える死を許容する死生観というかコスモロジー/宇宙観に貫かれておった。

無論、この著者はそんな経営がベストとは言っておらず、様々な経営マインドの一つとして語り、比較する必要もないとも言っている。
ワシも森の中で感じる生命の気配や砂漠で感じる死の匂い、海で感じる安心と恐怖、その感覚は大事にしてゆきたいと改めて思った次第だ。
ワシの中にある森を見つめてみよう。

あっぱれな書であった!
皆のもの、森のリトリート気分で一読する事を命ず、もとい、お勧めする。

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