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セルフツッコミは海に投げ捨てたよ【エッセイ】

読者の方はお気付きかもしれないが、私はセルフツッコミを全くしない。
それはnoteでもTwitterでも私生活でも職場でもだ。
たとえその文章や発言が読者や聞き手から誤解を招きそうな流れであったとしても極力自分が吐く言葉は言い切る形をとっている。

セルフツッコミとは軽微な言葉の修正、切り返しを自身で手短に挟むことである。これはとても便利な話術の形態であり、読者や聞き手の誤解を未然に防ぐと同時に、手軽に自分自身のリズムを生み出すことができる。

例えるなら漫才の掛け合いを自身の言葉の中だけで集約させてしまう行為なのである。聞いている方は楽だ。「あれ?」と思うよりも早く書き手もしくは話し手が修正してくれるのだから、読書ないし会話における齟齬自体が初めから少なくなる。よって読み手や聞き手は聞くことに徹することができる。それは発信者が優秀であればあるほど顕著になる。

ここまで聞くとセルフツッコミは良いこと尽くめの文章術もしくは話術に思える。実際セルフツッコミを含んだ文章は圧倒的に読みやすく人気が高い。

でも私はその便利なはずのセルフツッコミの一切を捨ててしまった。もうそれは影も形もないのできっと海の藻屑となってしまったのだろう。

当初その理由が自分でもよく分かっていなかった。
ただ捨てた瞬間に「これでよかった」と感じたことだけは憶えている。

はじめセルフツッコミをしないことで間が抜けたような文章ないし、話術になってしまったような錯覚にとらわれたが、驚くべきことに対人関係に悪影響は全く生じなかった。それどころか人生が好転し始める傾向が見え始めたのである。あれは不思議な体験だった。

コミュニケーションにおいてキャッチボールの回数が自然と増えだしたのである。よくよく考えれば当然だ。自己完結していないのだから言葉に余白が生まれるのだ。

その余白はお互いの会話によって埋められてゆく。

こちらの言葉の内容に対して相手側も疑問に思ったら素直に訊ねてくるようになった。それからは軽微な修正は相手のとの会話において執り行われるのが常になった。これの良いところは相手と自分との相関関係において修正を行ってゆくわけだから自然とお互いの呼吸が合うという感覚を共有できることに繋がったということだ。

この相手は何かおかしいと思ったときに会話によって修正が利く。
この事実はそのまま信頼関係につながるのである。

文章でも同じだった。
このnoteで文章を書き、セルフツッコミなしで発信する。
するとその余白を感じた読み手から反応が返ってくるようになったのだ。

そこでやりとりしたアカウントとは必ず人と人との関係が構築される。

その昔なんとなく始めたことが人生に影響を及ぼしているのである。
なんとも面白いことだ。

#エッセイ #生き方 #文章

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