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父と私

父が他界して5年が経ちました。今更ながら、アドバイスをもらいたいと思うことがたくさんあります。

父が、同じ早稲田大学出身の宿澤広朗のことをよく話してことを思い出します。職場のビルが一緒であったのか、「今日、宿澤とトイレが一緒だったんだよ!」と興奮気味に話していたことがありました。

今、宿澤広朗の「勝つことのみが善である」という本を読んでいます。元ラグビー日本代表監督であり、銀行の凄腕バンカーの話です。55歳という若さで亡くなりましたが、本当に凄い人とはこういう人なのだと、尊敬を超えた興味で読み進めています。

2021年のプロ野球クライマックスシリーズが始まりました。セ・リーグもパ・リーグも最後まで優勝決定がもつれる面白いシーズンでした。

昨年度それぞれ最下位であったヤクルトとオリックスがリーグ制覇したことも話題になりました。前半猛烈な勢いのあった阪神タイガースが、後半失速したことが残念でなりませんが、これが長期戦のプロ野球の面白さでもあります。

私は、父が45歳のときに、待望の男子として生まれました。アンチ読売ジャイアンツの父は、東京生まれの私を見事に阪神タイガースファンに染めてくれました。1985年、阪神タイガースの勝ち進む姿を、テレビ、ラジオ、新聞で毎日父と確認し、熱狂しました。

父は毎週末、缶ジュースを餌に、私を公園に連れ出しました。そこで父の経験してきた野球、サッカー、ラグビーを教わりました。30歳まで球技を続けられたのは、父の影響が大きいことは間違いありません。

プロ野球がオフシーズンになると、大学ラグビーを一緒に観戦しました。ラグビーのルールはよくわかりませんでしたが、出身校の早稲田を応援する父に対して、私はタイガースカラーの慶應大学を応援していました。その慶應大学の中に、圧倒的な走力を持つ「若林」というトライゲッターがいました。

中学校でバスケ部に所属していた私は、高校でもバスケを続けようと考えていました。しかし、ラグビー部からの熱烈な勧誘を受け、一晩考えて心が変わりました。父を喜ばせたいという気持ちがどこかにあったと思います。「若林」がこの学校の卒業生であったことも小学生の頃から父に聞かされていました。

それから3年間、素晴らしい仲間とともにラグビーというコンタクトスポーツを十ニ分に楽しみました。強いチームではありませんでしたが、高校ラグビー引退のときほど、涙を流した経験はありません。コンタクトスポーツに取り憑かれた私は、その後大学、社会人と30歳までアメリカフットボールを続けることになります。

高校を卒業すると、父は一歩遠くで私を見守るようになりました。大学アメフトの合宿をこっそり覗きに来たり、店長となったお店にこっそり食べに来たりと、面白半分で私を気にかけていたようです。

「長い時間楽しませてもらった」

アメフトを引退したあとに、足繁く試合会場に足を運んでくれた父から言われました。引退を決めたのは自分の限界がわかったからです。大した選手でなかった私を、見ていてくれた人が居たのだと感慨深いものがありました。

大人に近づくにつれて、生意気になり、親の器を勝手に小さく見積もるようになっていました。しかし、さらに年を重ねて子供ができて、親の偉大さに気づきました。今、生意気になりつつある自分の子供たちの様子がよくわかります。飾らず自分をしっかり伝えていきたいと思います。

nakaba ueno
上野 央

憧れであった若林先輩の噂は聞くものの、未だに会ったことはありません。

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