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【愛知県の皇室伝承】3.なぜか渥美半島に渡った後小松天皇の幼い皇女「松代姫」(田原市)

壽命殿長仙寺の皇女伝説

 愛知県田原市の壽命殿長仙寺。永禄八(一五六五)年の五月、岡崎の戦国大名・松平家康――のちに「徳川」に改姓して江戸幕府を開く――が田原城を攻めるに際して本陣を置き、前厄祈祷と戦勝祈願を奉修させたという由緒ある寺である。

山門。老朽化のため現在通行が禁じられている。
左の碑に「永禄八年五月 徳川家康公本陣趾」とある。

 その参道では「御大典記念」と刻まれた寺号標を見ることができる。皇室の慶事に際して建てられた碑は、神社であれば珍しくもないが、寺院においてはあまり見られるものではない。

「御大典記念」として建てられた参道の寺号標

 寺院であるにもかかわらず「御大典記念」の碑があるのは、皇室にゆかりがあるからだろうか――。

 境内西側に広がる霊園の一角に、小さな塚の上にいかにも古そうな五輪塔が一つだけ置かれた異様な区画がある。この五輪塔は、寺伝によれば第百代人皇・後小松天皇の「松代姫」なる皇女の御墓所だという。

「松代姫」のものとされる五輪塔

 五輪塔の写真をさまざまな方向から撮っていると、東側の地面に、白銀色の板が置かれていることに気が付いた。当初は気にも留めなかったが、よくよく見れば白い文字で「松代姫墳墓」とあり、その左側に何やら文章が続いていた。

「松代姫墳墓」

 経年劣化で文字がかすれていたことに加え、真夏の日差しを反射していたから非常に読みづらかったが、炎天下、額に汗しながら解読してきたので、下に転記する。

松代姫は後小松天皇の王姫といわれる。
姫の位牌として「空真宗禅童女永禄五年十二月七日松代姫八才」がある。姫は母君より菊花文章(※原文ママ)入りの守袋を頂き大和路から伊勢に出て渥美半島岬に上陸、堀切村の(現主)宅に一泊、御守を忘れ東進し長仙寺で逝去されたとの寺伝である。其の真偽は不明であるが人口に膾炙する。御守りは現在渡瀬家に伝えられている。
昭和五十九年 田原町教育委員会

 堀切村とは、現在の田原市堀切町のことであろう。この説明板が設置されてからおよそ四十年が経過しているが、松代姫の「菊花文章入りの守袋」が伝えられていたという渡瀬家は、今もちゃんと所蔵しているのだろうか。そもそも渡瀬家自体まだ続いているのだろうか――。

 情報の古さに若干の不安を覚えつつ境内東部の薬師堂に上がってみると、説明板の通りに「空真宗禅童女尊霊位」と書かれた皇女の御位牌が、確かに奥に安置してあった。

 供養はきちんとしているのだろうが、正直なところ、地面に倒されたまま野晒しにされている古い説明板からして、地元でそれほど大事にされている伝承ではないという印象を受けた。

 そもそも、不安定な南北朝時代ならばともかく、京都の政情がすでに安定していた後小松天皇の御宇に、幼い皇女をなぜ京の都から下向させなければならなかったのだろうか。残念なことに、触れられる情報の少なさゆえに考察のしようもない。

余談:長慶寺伝承

 長仙寺から北にわずか一.五キロほどのところにある布金山長慶寺(豊橋市)には、土御門天皇の皇子「弘仁太子」の御墓所とされる五輪塔がある。率直に言って、長仙寺は皇女「松代姫」伝承のためだけに足を運ぶほどではないように思う。「松代姫」の墓参をする際にはセットで長慶寺にも行くとよいだろう。

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