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芸人の荷物を持つな 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(13) 

不安の中、吉本入社

1981(昭和56)年4月1日、一抹の不安を抱えながら僕は吉本興業株式会社に入社した。なぜ不安だったかというと、もちろん社会人になるという漠然たる不安もあったが、吉本興業という会社がどうもかなり「ええかげん」な会社ではという懸念があったからだ。
前にも述べたが、入社試験の面接もかなり「ええかげん」だったし、内定が決まった年末の内定者懇談会での人事担当者の対応や質問に対する回答もかなり「ええかげん」だった。同期の現謝罪マスターで元よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務の竹中功が「僕ら入社したら、どんな仕事するんですか?」と聞いたとき、「こんなとこで会議したりとか、まあ、そんなんや」と答えたのだ。この課長は後に副社長になるのだが、その時の僕は「そんなんやって、どんなんや?」と突っ込みたくて仕方なかった。これには、どうやら同期の皆も「大丈夫か、この会社」と不安になったらしい。
その竹中に聞いたら、彼の同志社の先輩は「やすきよの現場とか、いくよくるよのマネージャーやってるらしいで」ということらしかった。求人票には「テレビ・ラジオ番組、舞台の制作」と書いてあった筈だが。一人っ子で、他人のお世話なんて真っ平御免だと思っている僕としては、それも大きな不安材料であった。
そしてその不安は的中する。
吉本興業はいい加減な会社だったし、僕はマネージャーという仕事に就くことになった。

吉本は新人研修からしておざなりだった。
入社してすぐに、各営業所に挨拶回りに行くのだが、京都花月、うめだ花月、うめだグランド(うめだ花月地下の映画館)、なんば花月とその敷地内のケニアという喫茶店の地下にある花月シネマ(成人映画上映館)、ボウル吉本(ボウリング場)、新世界グランド(成人映画上映館)だけで、東京事務所には行かないから2日で終った。
あとは、どこかのコンサル会社が主催している3日間のセミナーを受講して、感想文を出せという課題がでたが、当然総務の人間は誰も同行しないので、我々新入社員一同はサボることにした。ただ一人、後にやすしきよしや明石家さんまのマネージャーを経て、管理部門担当の取締役になる関大卒の黍原義和が「吉本辞めて、他所へ行くときに役に立つかもしれんから、僕は行くわ」と言うので、我々は毎日昼過ぎに会社からほど近いバンビというJazz喫茶に集まり、黍原から講演の内容を聞いて適当に作文したのを覚えている。
会社も新入社員も「ええかげん」だったわけだ。

劇場研修で大失態

それから程なく劇場研修が始まった。僕は吹田に住んでいたので、門真に住んでいた京大卒の谷良一(後に事業部系担当取締役になるM-1グランプリを作った男)とともに、うめだ花月での研修となった。寝屋川に住んでいた竹中が京都花月、西成の黍原と堺に住んでいた玉利寛(同志社卒、いくよくるよマネージャーなど)がなんば花月と、適性とか関係なく家からの距離で決められた。
研修といっても、劇場事務所に出勤し、電話番、入場整理、楽屋への連絡係、新喜劇やポケットミュージカルスの稽古のお手伝いなど雑用をこなすだけである。出番の合間の芸人さんに、お茶や昼ごはんに誘ってもらったりもした。今度の新入社員はどんなやつだろうという興味もあったのかもしれない。随分大事にしてもらったというより、まだまだお客さん扱いだったのだと思う。ひょっとすると、ここで逃げられたら困ると思っていたのかもしれない。
僕の研究期間開始時に「ザ・ぼんちショー」がプログラムとして組んであったので、うめだ花月には大勢のお客様が来場されていた。入場券を買うお客様の行列が、うめだ花月横の曽根崎商店街から劇場裏の曽根崎小学校まで続いた。そんな状況だから、終演時に正面からお客様に出ていただくと、次の回に入場されるお客様とぶつかり大混乱になり、舞台上を通って劇場横の非常口から出ていただいたこともあった。そんなある日、正面からお客様がすごい勢いで退出されている流れに逆らって、白髪オールバックの老人が入場券を持たずにロビーに入ってきた。
これは不正入場だと思った僕は、「おっさん、タダで入ったらアカンがな」とその老人を咎めると、「お前、誰や?」と言うので、「俺はここの者や。お前こそ誰や」と問いただした。そこに、出番を終えて事務所に来た林家小染(四代目)が、その様子に気付いて「君、この方はうちの会長はんやで」といった。頭が真っ白になった僕は、「失礼しました」と謝ってミキサー室に逃げ込んだ。試雇期間中の新入社員の分際で、会長の林正之助を「お前」呼ばわりしたのだから、クビを覚悟した。
だが、結果はお咎めなし。「会長の顔を教えてない総務が悪い」ということだったらしい。首は繋がった。
翌日から、いやその日のうちから、会う先輩社員が皆、「君か、会長を劇場から放り出したのは」と言われ、この会社の情報伝播力の凄さに驚かされた。というより噂話が好きなだけかもしれないが。「これで顔と名前を知ってもらえておいしいやん」とも。ポジティブな会社なんだなともおもったのだった。

花月の出番順

劇場研修では、翌日の出番組みという仕事もあった。本社のマネージャーから送ってきた芸人のスケジュールを見ながら出演順を決めていくのだが、これで驚いたことが二つあった。
プログラム代わりに劇場の入口で配っているマンスリーよしもとの出番表では、僕が子供の頃から観ていた中田ダイマル・ラケット三人奴などの大ベテランが、文字も小さく、前の方に組まれているのだ。
年功序列ではなく、人気のあるものが後ろの出番になり、キャリアに関係なく一番人気の芸人がトリを取る。冷徹な吉本ルールだ。当時の松竹芸能だったらこんな出番組みはしない。

1981(昭和56)年5月、うめだ花月研修中の出番表

そして、もっと驚いたのが、劇場出番の芸人がどんどん抜けるのだ。人気芸人は、折からの漫才ブームで東京のキー局からも引っ張りだこで、会社としてもメリットのある全国ネットのテレビに出したいということで、人気者が抜けて他の芸人が代演する。この代演する人のことを社内用語で「スケ」というが、このスケが抜けた芸人より格下だったりすると、お客様からクレームが入る。明石家さんまが出ないとなると、誰がスケで来ても事務所に苦情が入る。
やすしきよしなどは、本来トリなのに、1回目の頭で出て、飛行機で東京に行って番組を撮って、また大阪にトンボ帰りして、新喜劇の後に出るなどということを平気でやっていた。
年功序列を破壊しただけでなく、せっかくセットした出番順も「おいしい」仕事優先で変更するというフレキシブルにも程がある出番の組み方だった。
ここに、創業以来の吉本の徹底した合理主義が現れている。

もちろん、劇場の看板芸人を抜かれるのだから、花月の支配人は愉快ではなかったと思う。東京のメディアの仕事の方が、芸人にとっても会社にとってもプラスなのはわかっているが、現場としては、「興行会社としてどうやねん」という思いも強かったように思う。
そんなある日、劇場に一人の男が訪れた。事務所勤務の先輩社員が、「君たちの大先輩の大﨑くんや」と紹介してくれた。大阪本社の先輩方には挨拶し、木村チーフにも挨拶したが、それまで唯一挨拶できていなかったのが、後の社長、会長になる大﨑洋だった。イタリアのブランドclosed のデニムパンツにLee のストームライダーを羽織っていた。第一印象は「トラッドが中心のコンサバなファッションの人が多い吉本にもオシャレな人がおるんや」だった。後に、このパンツは僕の物になり、大﨑洋との上司部下というより肉親に近い関係は40数年を経た今に至るまで続いている。

いよいよ制作部配属

3ヶ月の試雇期間を終えて、我々新入社員は、宣伝広報に配属になった竹中以外の4名は本社の制作部に配属されることになった。竹中は新入社員にして、この4月に刊行されたばかりのマンスリーよしもとの編集長に就任した。僕は桂三枝(現 六代桂文枝)の現場マネージャーとなんば花月の担当ということになった。

そのときに言われたのか、入社直後に言われたのかはっきり覚えていないのだが、制作部長の中邨秀雄から言われたのが、吉本マネージャー三箇条である。
・芸人を師匠と呼ぶな。君たちは弟子ではない。
・芸人の荷物を持つな。君たちは弟子ではない。
・芸人にメシをごちそうになるな。メシ代は会社が出してやるから、君たちが払え。
三番目は、劇場に居るときに既に破っていた。
二番目は、お年寄り芸人を地方営業に連れて行く場合など、見かねて持つこともあった。一度、東京から地方収録に行った帰り、さすがに疲労が溜まっていた桂三枝の荷物を持とうとしたら、「君には持たされへん」と言って自分でボストンバッグを持たれていた。
一番目は、自分がある程度社内の地位が上がって、ほとんどの所属芸人が自分より年下になった頃、尊敬できる年上の芸人、例えば笑福亭仁鶴には、自然に師匠と呼ぶようになっていた。

中邨秀雄


それから、後に上司の木村政雄から言われたのが、
・タレントの後ろを歩くな、前を歩け。
これは、物理的に前を歩くだけではなく、常に情報をアップデートし時代の流れを掴んで一歩先を歩けということだったと思う。

この四箇条は、他の芸能プロダクションでは適用されないだろう。ここまで上から目線だと、商売にならないからだ。吉本は、劇場主であり興行会社であったから、芸人との関係性も当然ながら一般の芸能プロダクションとは異なっていたのだろう。
戦後、進駐軍キャンプ回りのジャズバンドのマネジメントから派生、発展していった東京の芸能界とは全く違う生態系にあったと言って良いだろう。
そんな大阪の興行会社系の芸能プロダクションでの社員生活が始まった。


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