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雑学note【第21回】 二宮金次郎

薪を背負いながら本を読む二宮金次郎の像。

小学校とかに置いて、先生が「見ろ、二宮金次郎は偉いだろ! 時間を惜しんで勉強に励んでいるんだ。それに比べてお前らは……」と言うためにあるあの像。

金次郎少年の勉強熱心ぶりを物語っている。しかし、そうまでして、勉強していた二宮金次郎が、その結果どんなことを成し遂げたのか、僕はよく知らない。

このままだと、僕の中では、ただの「ながら勉強野郎」というイメージで終わってしまう。

そんなはずはない。ただのながら勉強野郎が銅像になるなら、僕だって子供の頃は授業を受けながらマンガを描いていたから、銅像になるはずだ。

二宮君が銅像になったのは、それなりの結果を残しているからに違いない。もし、薪を背負ってまで勉強したのに、スシローの180円の皿を「贅沢」と呼び、280円の皿は存在しないと思い込むような暮らしをしていたのでは甲斐がない。

何かしらの成功はしているはず。庭付き一戸建てくらいは買えているはず。

早速調べてみる。

少年時代

二宮金次郎は、江戸時代だいぶ後期の生まれ。幼少の頃、家が水害で流され、家の財産を失う。

その貧しさの中、14歳の時父を亡くし、16歳で母を亡くすこととなる。95年生まれとは比べものにならないほどの人生ハードモードである(一概には言えないが……)。

その時代の金次郎は一家の生計を立てるため、朝から晩まで働いていた。その頑張る姿が、あの銅像だったのである。

僕の想像だが、おそらく、貧困を極めた暮らしの中で、どうしたら少しでも家の経済的な状況がよくなるのか、どうしたらより作物をよく育てられるのか。そういうことを必死で考えて、勉強していたのだろう。

もともとイメージしていた「家のお手伝いしながら、よく勉強して偉いね」とかではなかった。そうしないと、家族も自分も生きていけないという切実な想いがあったのだ。

大人になってから

自分が苦労してきただけあって、また苦学の甲斐あって、農業的な知識や、財政、経済の立て直し的なことへの知識や感覚などがとても優れていたようである。

大人になった金次郎は、自らの家の復興を果たすと、小田原藩の服部家や、桜町という所の立て直しを見事に成し遂げるなどの活躍を見せる。

その後も生涯にわたって農村のコンサルタントみたいなことをして、農村各地の財政の立て直しをし続けた。


では、どうやって各地の財政を立て直したのか……。

そこには経済と道徳を融和させた二宮金次郎独自の理論があった。

そのノウハウは「報徳仕法」、それを支える思想は「報徳思想」と呼ばれる。

ここでは詳しく触れないが、今なお強く支持され、そのあたりを取り上げたビジネス書なども多く出版されている。


「二宮・薪読書・金次郎」の正体は、凄腕コンサルタントであり、思想家で人格者でもあるすごい人だった。かっこいい。もし「ながら勉強の人」だと思っている人がいたら伝記を投げつけてやりたい。

参考文献

Wikipedia「二宮尊徳」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3

ブリタニカ百科事典「二宮尊徳」

「二宮金次郎とは」(http://kinjiro.a.la9.jp/kinjirotowa.htm)


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