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【文脈】(コンテクスト)という【捉え方】(第2回)

いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

私、先日より【文脈】という【概念】で、【創作】とそれを取り巻く【環境】について【考察】を巡らせております。

まず前回は【文脈】の大枠からその存在感をご提示してみました。

【創作】だけに留まらず、『モノを作ること』に関わっていて、そこに『【観客】や【顧客】を始めとした受け手』がいる限り、そしてその営みが連綿と続いている限り、【文脈】は切っても切り離せない【概念】です。
 私はこの【文脈】や、これを形成する種々雑多な【潮流】に強い関心を抱いておりますが、その背景を今回からお話しして参りましょう。

このように【文脈】を形成する、絡み合い接し合う【潮流】というものを考えるに、私が強く興味を持つ理由がもちろん存在します。

何かと申せば。
 『特定の集団内の、文化的【潮流】』というものは、『(大小各レヴェルで見た)【流行】の軌跡』でもあるわけですが、その一方で、『既存の【価値観】に対する、当事者(【作者】を含む)の受け止め方とその対応』の連なりでもある――というのが、その理由です。
 【文脈】を紐解くことは『【潮流】に対する【認識】や立ち回りを“歴史的【事実】から学ぶこと”』でもあり、同時に『ケース・スタディとして考えてみる教材』でもあります。『どのような【表現】に対して、どのような受け止め方がなされ、またどのような【提案】が投げ込まれたのか』。また、それは自分――【作者】でもあり【観客】でもある自分として、どれをどのような理由で支持したいのか、あるいは反対したいのか。

こう考えてみるとき、【文脈】を前にしての立ち回りとしては、さてどうでしょう。
 既存の【文脈】に乗るも一手、新たな【提案】を投げ込むも一手というものです。歴史を知れば、参加者それぞれの立ち回りも見極めやすくなることもあります。それに、自分なりの一石を投じるにしても、です。歴史はケース・スタディとして大いに役立つことでしょう。何より『現状ある【文脈】を紐解く』上で、歴史は大いに参考とできるはずです。
 つまり、『過去と現在とを問わず、【文脈】を紐解くことは、それに対する向き合い方や立ち回り方を考える役に立つ』というわけです。

と、ここまで踏まえて『【文脈】に対する向き合う【意義】』を考えるに。

一つには、創作に込められた思想の一つ一つを理解する手助けになる――という側面が見えてきます。つまりは自分を鍛えるべきテーマが、そこには大小様々取り揃えられているわけです。
 技法にしろ見方にしろ、はたまた立ち回り方にしろ、その背景を理解していればいるほど役立つのが道理というものです。成立の経緯、その効果、関連する思想やそれに対する向き合い方など、『成り立ちの背景』というものは、言うなれば『一つの【物語】を伴う【取扱説明書】』とでも申しましょうか。ただの羅列とは比べようもなく印象を伴って頭に入り、なおかつ実際に用いる局面や効果の実例までが示されているに等しいものです。それが技法や見方や立ち回りなどといった、具体的な知識に紐付いて頭に入るわけです。身に付けることを考えるなら、実に恵まれた条件が揃うと申せましょう。

さらにもう一つには、『【文脈】を観ている【観察者】』へ自分の存在を示す足がかりにもなる――という側面もあります。つまりは【文脈】の対して【提案】などの回答を示す時、『【文脈】を観ている【観察者】』が興味を示す【可能性】は、相応に大きくなるはずなのです。

なおここで、「観られなければ、そんなことをしても意味がない」との言は、しかし私の考えを後押ししていることにしかなりません。例えばいざ首尾よく観られたとして、その時【作品】に『【文脈】に対する回答』が込められていなかったら、さてどうでしょう。自己アピールにしても盛大なマイナスが危惧されるわけですから。
 さらに、ここで『【文脈】を観ている【観察者】』に視点を戻してみましょう。
 彼らの人物像へ思いを馳せてみるに、さてどうでしょうか。
 【文脈】に着目するからには、【作品】を構成する様々な要素について造詣が深い可能性は極めて大です。さらには、これまでの歴史を観察して【流れ】を思い描いてもいるはずです。既存の【文脈】に対する【意味付け】についても、要素一つ一つにわたって独自に【解釈】するだけの蓄積と思考力を備えている人は少なくないはずです。

つまり『【文脈】を観ている【観察者】』は、往々にして『コアなファン』なのです。
 ただコアだというに留まるわけではありません。美術で例えるならキュレータ、技術で見るならアーリィ・アダプタ、対象の【存在意義】を【文脈】と照らし合わせた上で見出し、その【存在意義】を【仲間】、つまりは同じく『【文脈】を観ている【観察者】』と共有していくのです。のみならず、その過程で相互の意見を束ね合わせて、さらなる【存在意義】を見出してくれる可能性すらあります。これは、『【文脈】を観ている【観察者】』という極めて高濃度の【コミュニティ】にて『【作品】に【存在意義】を見出し、趣味嗜好の近しい人々や【コミュニティ】と共有していく』ことを意味します。
 つまり『【文脈】を観ている【観察者】』は、同時に『【作品】の【存在意義】を【文脈】と紐付け、それぞれの【文脈】に沿って普及を促してくれる存在』でもあるわけです。しかも『彼ら自身の言葉で』。それもただの言葉ではありません。彼らの【認識力】は【文脈】を観察する過程で研ぎ澄まされているからです。ゆえに、『彼ら自身の言葉』は『極めて強力な【説得力】に満ちている』ことになります。

さて、今回は一旦ここまで。

『【文脈】に向き合うこと』を意識する時、そこには『【文脈】を観ている【観察者】』という『コアなファン』にも向き合うことになる――という、これが私の【認識】です。言うなれば『これぞと見出した【作品】を、【文脈】と紐付けてくれる存在』、キュレータやアーリィ・アダプタに相当する存在です。ただ当てずっぽうに【作品】を繰り出すより、少なくとも希望を持てる可能性ではないでしょうか。

次回は、この観点から『【文脈】への向き合い方』を掘り下げて考察してみましょう。

よろしければまたお付き合い下さいませ。

それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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