他人の神棚を笑うな

【『他人の神棚を笑うな』〜日々の切れ端(一)〜】

 自宅前の大通りを東に向かって少し歩くと、鉄筋コンクリートの建物が建ち並ぶ中に、老朽化が進み今にも傾きそうな黒塗りの木造の一戸建てがぽつんと残っていて、周りの建物が比較的最近になって建てられたものばかりなだけに、その黒塗りの建物は少し異様な空気を醸し出していた。
 そしてその家にはいつも半パンにタンクトップ姿の初老の男性の住人がいて、僕がその家の前で男性とすれ違うたびに、「お前らうるせぇんだよ、いつもいつも」とこちらに顔を向けることなく聞こえよがしにぶつぶつと呟くのだ。
 開け放たれた玄関をちらりと見ると、玄関の中には何かでパンパンに詰められた黒いゴミ袋が無造作に積み上げられ、玄関先に並べられた鉢植えの植物も規則正しく並べられてはいるものの、ただ緑色のものが続くだけで、彩りというにはあまりにも淋しく感じた。
 それらの状態を見るにつけて、人によっては、「せっかく大通りに面した上にそれなりの広さもある土地なんだから、いっそ丸ごと売り払ってそこに新しく建てられたマンションの最上階にでも一部屋区分してもらえば一生安泰なんじゃないの?」と考える人がいてもおかしくないだろうとも思えた。
 さして不動産投資だ都市開発だに興味がない僕からしてもそんな風に考えてしまうということは、きっと目端の利いた業者であれば既にあの男性に何度もアタックしているに違いなかった。そうか、そういうことであれば、すれ違うたびに「お前らうるせぇんだよ、いつもいつも」と吐き捨てるように呟いた男性の言葉についても少し納得出来るような気がした。
 
 何も事情を知らない他人からすれば、そのあばら家とも言えそうな建物も、本人にとっては暮らしたその年数に応じただけのいろいろなものが染み込んだ大切な家のはずで、他人や世間の物差しとは当然のように隔絶した価値基準がそこには存在しているに違いなかった。
 その男性からすると、身なりをスーツで固め、髪型をビシッとオールバックにしていなくとも、世間一般の物差しに毒されている僕なんていう存在は、これまで幾度となく襲いかかって来たであろう不動産業者側の世界の住人に見えても不思議ではないのだろう。
 実際のところ自分に心辺りのありそうなことに置き換えてみても、僕が初めて動物らしい動物を飼った¥6,000の雑種のロップイヤーラビットの代わりに、ある日血統書付きの¥80,000のロップイヤーラビットと交換してあげますよというバイヤーが突然現れて来たとしても、僕はそんな申し出に首を縦に振るはずはなかった。
 もう何年前になるか忘れたけれど、当時それなりに親しくしていた知人と地方の100年近く続く酒蔵に訪れる機会があり、案内された酒蔵の隅に置かれた古びた神棚を見た知人が、「あんなボロいの買い直せばいいじゃん、汚いしダサい」と言うのを聞いて、この人との関係は長くないなと思った事がある。
 それは、他人の家で先祖代々祀っている神棚や仏壇をわざわざ足蹴にするような事が原因になって、今までどれだけ世界中で差別や戦争が起きるてきたかくらいは感覚的にでも理解できない人なのかな、というのがショックだったからだと思う。
 その知人の心の中にも、きっと踏みにじられたくない神棚というものがあるはずなのだけど。
 二十歳が大人の境目なのだとするなら、僕は大人になってもう随分経つのだけど、その中で世の中というのは基本的にお金さえあれば大抵のものが買えてしまうことに気がついた。車もマンションも美食もブランド品も、刹那的で良ければ恋愛感情さえ。
 けれどある日、兄から送られてきた甥たちの写真を見つめていると、産まれたての赤ちゃんが「年収一億円になりたい!」なんて言うわけないよななんて考えていたら『何かを買うためのお金』よりも『値段のつけられない価値』の方にしか興味が向かなくなってしまった。
 他人から見てどれだけくだらないと思えるようなことですら、巡り巡っていつかは誰かの心を打つだろうから。
 人によって大事なものは世の中には一杯転がっていて、その心の神棚に祀られているのはジャビットなのかトラッキーなのか、クラシックカーなのか、忘れられない記憶なのか、それは分からないけれど。
 それを拝む必要はないけど、わざわざ踏みつけることもないようにも思う。



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