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ハナレグミ「家族の風景」を歌いながら考えていたこと

↓ ↓ こちらの記事を拝読して、腑に落ちた。

国語を生業とされている「歌詞を解く」さんの解釈は、真正面から歌詞に向き合われている。そう言われてみれば、そんな寂しさのある歌だったんだなと振り返った。とても腑に落ちた上で、僕の思ってたことと全く違う切り口だったので、手前味噌で恐縮だけど僕なりの解釈を記させて頂く。


カラオケで必ず歌う「家族の風景」。この曲との出会いは20年前の大阪のラジオ「FM802」。その月の邦楽ヘビーローテーションだった。名曲だ。静かに長く刺さり続けるこの曲に魅了され、以来、カラオケでは必ず歌ってきた。

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス どこにでもあるような 家族の風景 7時には帰っておいでとフライパンマザー どこにでもあるような 家族の風景

友達のようでいて 他人のように遠い 愛しい距離が ここにはいつもあるよ

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス どこにでもあるような 家族の風景

何を見つめてきて 何と別れたんだろう 語ることもなく そっと笑うんだよ

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス どこにでもあるような 家族の風景 7時には帰っておいでとフライパンマザー どこにでもあるような 家族の風景

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス どこにでもあるような 家族の風景

ハナレグミ「家族の風景」

僕は全然真正面から歌詞を見てはいなかった。見ていなかったからこそ、「歌詞を解く」さんの解釈が伺えてハッとした。
僕は行間を読み過ぎていたのかも知れない。


>ハイライトとウイスキーグラス
「お父さんの嗜好かな」ぐらいに考えていた。そのあとに”どこにでもあるような 家族の風景”とくるから、’70年代や’80年代の父親は家でもハイライトぐらいバンバン吸ってただろうなと。絵に描いたような健全な家庭ではないかも知れないけど、温かい中流家庭の風景を僕は想像していた。

>友達のようでいて 他人のように遠い 愛しい距離
この詞が「本当の家族ではない」ということの証左なのだろう。ただ僕は、「本当の家族の話」であることに疑いを持つことはなかった。「家族」を多面的に捉えた場合、こんな表現もありなんだろうなぁと。家族が成長する過程で、距離感は変動する。この詞の世界では、日没の遅い夏に夕食ギリギリまで遊んで帰ってくる小学生か、部活帰りの腹を空かせた中学生ぐらいを想像する。思春期の距離感は、大袈裟じゃなく、友達にも他人にもなり得る。それでもフライパンマザーにとっては些末なこと。何一つ変わることなく、夕食を作って待ってくれている。

「ハイライトとウイスキーグラス」は父親の嗜好かもしれないし、はたまた、フライパンマザーのとある一面かも知れない。シングルマザーで子ども(たち)の夕食を準備してから、夜の水商売に行かなければいけない(この辺りは「歌詞を解く」さんと重なる。…スミマセン)。ハイライトとウイスキーグラスは、母が出勤した後のキッチンに残された、吸い殻と飲み残し。子ども(たち)から見た、仕事をする母の姿の象徴が「ハイライトとウイスキーグラス」…
そんな見方もできそう。

>何を見つめてきて 何と別れたんだろう 語ることもなく そっと笑うんだよ
(両)親に対する子どもたちの視点が続けて描かれている。フライパンマザーが、帰宅の遅かった自分(たち)の夕食を食べる様子をそっと見てくれている。
笑うんだけど、どこか寂しげ。思春期の近づく子どもは勘が鋭い。でもまだ成熟しきっていない分、親の本心までは読みきれない。
寂しげな母の笑いかたは、母の寂しさだけではなく、母を遠くに感じる子どもらの寂しさも映しているよう。


好きな曲と自分なりに向き合う時間が作れました。
ありがとうございました。