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【エッセイ69】好きなものが増える幸せ

好きなものって年齢とともにどんどん増えていくよね。
逆に好きなものが減ることってほとんどなくて、熱量はその時々で上がり下がりはあるけれど、基本的に好きじゃなくなったりはしない。

だから、何が大変かって言うと、お金と時間がいくらあっても足りないよねって話。
お金はやりようがあるけれど(って別にお金持ちってわけではないですよ、ボーナスだってないし)、時間はやっぱ24時間じゃ足らん!

でもね、好きなこととか興味のあるものがたくさんあるのってとても幸せなことだと思う。

私は小学生の頃から大学生ぐらいまでサッカーがめちゃくちゃ好きで、桜色のユニフォームのチームの勝敗で一喜一憂したり、シーズンオフの移籍期間になると必ずある別れが本当に辛かった。

ある年、大好きだった選手がセレッソ(チーム名ぼかしてたのに急に発表)から出ていくことになった。
めちゃくちゃショックで数日泣いて過ごした。そのとき、私は中学三年生で受験生だったにも関わらず、シーズン最後の練習日に会いに行き、サインをもらい、人生初のファンレターを手渡した。

家は京都だったので、大阪まで親に車で連れて行ってもらい、受験生の大事な冬休みの一日をそれに使った。

それでふっきれたわけじゃないけれど、お別れには行って良かったなと思っている。たぶん行ってなかったら後悔してたと思うから。

私はその頃、選手の引退より、移籍してしまうことの方が悲しく思っていて、本当に辛かった。

今の考え方は少し違う。そのチームで出られない選手が、他チームで試合に出て輝けるならその方が良いと思うし、長くいた選手が移籍して、他チームで活躍して、愛されているのを見ると嬉しくなったりもする。
大人になったなぁ(しみじみ)。

それは、色んなことを好きになれたことと無関係じゃないような気がしている。

私はあの頃、情熱を傾けていたのがセレッソしかなくて、それはもう本当にその全てに一喜一憂していた。セレッソと共に生きていたと言っても過言ではない(それは過言か)。

でも今なら他にも好きなものがたくさんある。

セレッソが負けたって、選手が移籍したって、ゆずを聴いて、セカオワを聴いて、文章を書いていればショックは和らぎ、落ち着いて過ごせる。
たぶんあの頃、今みたいに好きなものがたくさんあったら、そこまでショックは受けていなかったんじゃないかなぁ、と思う。

高校生の私は、距離の取り方が分からなかったのだ。
セレッソしかなかったから、その距離がゼロ距離だった。

でも今は、他のものにも「好き」が分散されて、それだけを生きがいにしている、という感じではなくなった。
分散されたからと言って、「愛」が減ったわけじゃない。愛は深い。むしろ。

上手く距離を取れるようになったんだと思う。
ちょっと客観的に見られるようになったというか。

まぁ実家を出てからは、セレッソを一緒に応援する人がいない&ダゾーンとかとってないので、少し離れてしまっているけれど、相変わらず(心の中で)応援しているし、ファンクラブにも入ったままだ。

それに今はセレッソよりもオリックスに詳しいし(一緒に応援する人がいる&テレビ中継があったりする)、お金も時間も音楽に費やす方が増えてしまったけれど、それでも、私の青春はほぼセレッソに捧げていたことは変わらない。

セレッソのことは、もしかしたらもうあの頃ほどの情熱を持って応援することは今後ないのかもしれない。
そりゃあだって、青春時代の熱量には勝てないでしょうよ。
思い出に現実は勝てないって言うしね。

それでもずっと応援している。
こんなこと言ってるから、好きなものが減らないのだけれど。

減らしたくもないしね。










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