生きることに悩んで生活を見つけた。

持続可能性という言葉はなんだかごつごつしているし、それ自体がなんだか持続させる気分を損なうような気がしていて嫌だなと感じる。
持続させるためには何とも思わずに、しれっとできるようなこと、そしてそれが生活に組み込まれていること、いやむしろ生活ということが持続可能性の一つなのではないかと改めて思う。
僕はこのnoteを更新するというのは、もちろんお金を得ているわけではないけれど、習慣を超えて、生活になっている。
歯磨きとか、お風呂に入るとかそういう習慣を超えているようなこと、それが生活である。何を当たり前のことを言っているのだろうかと思われるのかもしれない。時にはめんどくさくなったり、後回しにしたりしつつ、それでも優先されてしまうようなもの、それが生活である。必要性に後押しされている習慣とでもいえるか。
習慣というと、なんだかお行儀がいいというか、物分かりがいいというか、合理的なにおいがしてちょっと嫌だ。
生活というと、ポジティブさとかお得感とか、操作可能性のようなものがなくって、どうしようもない感じがする。毎回決まりきった流れになることもないし、時には自分がひっくり返されるようなことを含んでいる。おそろしさも携えているような、そんな生活。

ライフハックという言葉にも、生活がひそんでいる。しかし、それはハックすると考えている時点でちょっと違うのだろう。ライフをハックするのではなくて、ライフの中でハックするほかないのが人間である。
ライフ自体をいじくりまわせるのだろうか。選ぶことはもしかしたらできるのかもしれない。どのように生きるか、という流行ってるんだかなんだかわからない映画のタイトルのように、生き方を選ぶことはできる。ただ、生き方を調整するということは土台不可能なのだろう。生きてみないとわからないし、生きてみて、ああ違うなと思っても、もう生きてしまっている。嫌自殺の可能性だってあるじゃないかとおっしゃる人がいるかもしれない。でも僕はそうは思わない。
僕の私淑していた人は自殺してしまった。悲しいとかそういうことは思わない。そういう選択肢があるとは思う。おもうけれど、現在の優位性を考えると、どうにも僕にはその選択肢は取れそうにない。
うまくいかないことは多いけれど、生活をやめるということを上手に行うなんてことをするよりは、下手に生活するほうが幾ばくかましだろう。かっこわるくても生きるというよりは、生活する、ということだ。生きるという言葉自体がちょっとかっこつけていて、まぁまぁ、そんなに肩に力をいれないで、お茶でも飲もうや、と言いたい。

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