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魔法の杖などいらないと決めること

過去の記事で、心のことに取り組むときに遠回りに思えても、少しづつでも感情の可動域を拡げることが大切だとお話ししました。

その方法は簡単です。

目覚めたとき気分はどうか、
歯を磨くとき感情はどうか、
コーヒーを飲むとき、
朝食をとるとき、
靴を履くとき、
玄関のドアを開けるとき、

自分の感情に注意を向けます。


心のことに取り組むということは、おそらく何かしら生きづらさを感じている場合が大半なのではないかと思います。

生きづらいということは、幼少期に自分の存在や感情を否定的に扱われて、
感情がじゅうぶんに動いていない可能性が高いと思われます。

生きづらさを感じているのに、感情が伸び伸びと躍動しているということは考えづらいのです。


生きづらさを手放し軽やかに生きたい、と願う人は、魔法の杖を探しがちです。
魔法の杖さえあれば生きづらさを手放せる。

その為になら、何だって出来る。

過去の見るのも辛い心の傷とだって、正面から向き合う覚悟がある。

そして、生きづらさを手放す決断を自分は出来る。

それなのに、朝コーヒーを飲むときの気分なんかに構っていられない。

そんなまどろっこしいことにかまけている場合じゃない。

そう思う人は少なく無い様に思います。


心のことは、実に不思議です。

一つの心の傷は、存在や感情を否定される度に複利で増え続け、いつの間にか傷だらけになってしまいます。

ところが、生きづらさに気づき、自分と向き合い始めると、いっときに、あらゆる気づきを経験することになります。

傷だらけになるときは、あれよあれよという間ですが、
気づきは一瞬です。


「気づきは一瞬」と聞くと、やはり魔法の杖があるのではないか、と思われるかも知れません。

自分は決断出来るから、朝のコーヒーを飲むときの気分なんかに注意してる場合じゃ無い。

それは、自分と向き合う準備が整っていません。

自分は決断出来る、
果たしてそうでしょうか?

決断は【自分】がすることです。

心の中の「確かな【自分】という意識」が決断するのです。

【自分】がじゅうぶんに存在感を示すことと、感情が活き活きと動くことは、イコールだと考えて良いと思います。

【自分】があるのに感情が動かない。
感情が動くのに【自分】が無い。
ということはあり得ないと考えます。


【自分】が無い状態で決断しようとしても、主体が無いのですから、決断しようが無いのです。

便宜上、【自分】が無い、と表現していますが【自分】は無くなることはありません。

ただ、無いに等しいぐらいまで小さく縮こまっているのです。

その小さく縮こまった【自分】をときほぐし、感情の可動領域を拡げることは、生きづらさを手放す上で大きな助けになると確信しています。


生きづらさを手放す上で、最初にすることが
「自分と向き合う」ことです。

「自分と向き合う」ことは、最初であり、全部とも言えます。

だからこそ、縮こまって小さくなったままの【自分】と向き合うのでは無く、
少しでも大きな自分、少しでも柔らかな感情であることが、解放の助けになることは、明らかです。

向き合いながらほぐす、ほぐしながら向き合うことが大切だと考えます。

まどろっこしいことをしている場合では無い、と思うということは、
魔法の杖を探しています。
近道を探しているのです。

遠くても少しづつ進もうと思ったとき、
遠回りでも進むと決めたとき、

はじめて気づきは見えて来ます。

心のことは、ひとつが動くと、全部が堰を切ったように動き始めます。

だから、気づきは一瞬なのです。


魔法の杖などいらない、と決めることが最初の決断なのかも知れません。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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