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この子の親であるとき、たったひとつの大切なこと

まだ小さいお子さんのことを、
「この子は手がかからない良い子だ」
と思ったことがありますか。 

それとも、

まだ小さいお子さんのことを、
「この子は聞き分けがない悪い子」
と思ってますか。

そもそも、良い悪いと決めること自体が「親都合」のジャッジメントです。

大人だって他人から評価されてばかりだと息が詰まります。

ましてや、幼い子供にとっては親が世界の全てです。

幼い子供にとっては、親から悪い子のレッテルを貼られることは、世界を敵に回すことと同じ意味を持ちます。

逆に、

良い子のレッテルを貼られることは、凄まじいプレッシャーです。
世界から良い人と思われたなら、誰だって素の自分では居られないのではないでしょうか。


つまり、
この世に天使の様な良い子はいないし、悪魔の様な悪い子も存在しないのです。

なぜならその子は、私達がかつて、そうであった様に普通の人間の子なのです。

その子は、親から見て好ましい部分も有れば、好ましく無い部分もあります。

それを、「親都合」で良い子とジャッジすることは、その子に「ありのままであるな」というメッセージを送ることになり、

悪い子とジャッジすることは、その子に「価値は無い」という思い込みを擦り込みます。

愛情に条件がつくと、子供は伸びやかさを失います。


良い子、悪い子と、その子にジャッジを下す前に、親自身が自らの心を顧みる必要があると私は考えています。

子供を良い悪いに分けることは、
極めて幼い視点です。
いわゆる白黒思考なのです。
いわゆるレッテル貼りです。

「親都合」の感情表現を子供に求めることは、
本来、幼い子供の要求に応える立場の親が、逆にその子に要求し、応えてもらっている状況です。

この時点で親子の役割は逆転しています。

親子の役割逆転は、子供の心に大きな影を落とす原因になります。

物の見方、捉え方が成長すると、多面的に見て、得てして中庸な捉え方が増える傾向にある様に思います。

その視点を持って子供を眺めると、その子が良い子か悪い子か、ではなく、

その子の長所、短所、得手、不得手、をそっくり受け入れることが出来、

それは取りも直さず、ありのままのその子を尊重する姿勢であると言えます。

その子の、
親から見た好ましい姿を、
また、
親から見た好ましく無い姿を、

その子の存在の全て、と捉えるのでは無く、
存在の全ては無条件に受け入れた上で、

無条件に受け入れた、その子の一部分として、
好ましい姿も、好ましく無い姿も、
言わば個性の現れとして捉えることが肝要だと思うのです。

それが、
本来、他者が踏み込んではならない領域である感情の発露を妨げない、その子との関わり方であり、

それが、
その子の存在を尊重することであると考えます。


世の中には、子育てに関する情報は溢れかえっています。

「子育てでやってはならない10のこと」
「正しい子育ての為の5か条」

といった様な文言が踊ります。

子育てに正解は無く、100組の親子が居たなら、100通りの状況が有り、100通りの子育てが有ると思っています。

それを個別具体的に情報として伝えることは難しく、
「10のこと」や「5か条」にまとめることは至難の業でしょう。

どれ程、育児書を読んでも、
どれ程、情報を集めても、

100点満点の子育てはあり得ません。

子育てする中で、必ず親はしくじりますし、必ず子供は傷つく場面を経験します。

幼い心は必ず傷つくのに、

伸びやかで健やかな心を育む子と、
「生きづらさ」を抱える子が、どうしても出て来ます。

何が両者を分けるのでしょうか。

それは、親がその子の存在を尊重する姿勢を持った親であるか否か、

ただ、その一点であると思います。

子供の存在を尊重することが出来たなら、前出の「10のこと」も「5か条」も必要ないと考えます。


親も成長途中の人間です。

自分の姿が全部正しい親などいません。

なぜなら、人はおそらく最期の時まで未完成な存在だからです。


そんな未完成な親だからこそ、

心に留めておきたいことが、

我が子についついジャッジを加えそうになった時、
我が子についついレッテルを貼りそうになった時、

原因はその子には無く、

自分の心の中にあるということ。


自問すべきは、

この子の存在を丸ごと受け入れているか、

この子の存在を尊重出来ているか、

ということだと思います。


この子の親であるとき、

大切な、

たったひとつのこと、だと

思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム


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