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生涯、春の嵐にさらされる人

9月に入りましたが、今年はまだまだ暑い日が続いています。

休みの日は、行く夏を惜しんで飽きもせず海を見に出掛けるのですが、
海岸べたを散策していると、夏好きの私でも日影が恋しくなります。

それでも、季節は確実に移ろっています。

7月の上り調子とも違う、
8月の真っ盛りとも違う、
吹く風にまぎれて秋の足音が聞こえます。

連日、スマホには熱中症を注意喚起するメッセージが届いても、
季節は移ろい、今年の夏は終わります。

優しく凪いだ海を見ました。
怒った様に荒れた海も見ました。

来年の夏もまた、いろんな海を見にこの海岸に来ようと思っています。


我が国日本には、四季があります。
折々に様々な表情を見せてくれます。

私達の生涯は、よく移ろう季節に例えられますし、
確かによく似ていると思います。

春、芽吹きの頃に生まれ、暖かな日差しの中、すくすくと成長します。
揺れる思春期は、さながら桜の頃の春の嵐でしょうか。
生命が勢いを増す夏に備えて、個としての自立を試される季節です。
この揺れる季節があればこそ、
生命の真っ盛りの夏があり、
円熟の秋があり、
静かなる冬を迎えるのでしょう。


ところが、春の嵐の季節に留まってしまう人は少なからずいます。

春の嵐は生命の盛りを迎えるためには、欠くことの出来ない季節です。

しかし、それは、この時期に通過する「季節」だからこそ適切な意味を持ち、

また、通過する「季節」だからこそ、嵐にさらされ、揺れても、濡れても、飛ばされても持ちこたえることが出来、

更には、嵐に揉みくちゃにされた経験は、生命をたぎらす燃料になります。

しかしながら、それは短い「季節」だからこそ、なのです。


どうして思春期に留まってしまう人がいるのでしょうか。

その原因は、もっと遡り「芽吹き」の季節にあります。

本来、芽吹いた柔らかで伸びやかな芽は、暖かな陽射しを全身に浴びて、すくすくと成長する筈なのですが、

陽の光が全く届かない芽もあるのです。

陽の光は、親が芽吹いた我が子に注ぐ愛情です。

親の愛情はその子に届く筈なのですが、親が心に重大な「生きづらさ」を抱えている場合には、
親は我が子に届ける筈の愛情を見失っているのです。

だから、芽吹いた我が子に、愛情という陽の光は届くことがありません。

その子はすくすくと育つことが出来ません。

伸びやかな双葉を育むことに失敗します。


人生にはその時に応じた発達課題があり、その課題をクリアすることが、次の課題に取り組む足掛かりになります。

ところが、芽吹いて、必要な陽の光が一切届かないと、最初の発達課題の双葉をつけることが出来ません。

双葉をつけることが叶わなければ、次の発達課題の丈夫な茎を作ることが出来ません。

茎が丈夫でなければ、なかなか上に伸びません。

順調な枝分かれが出来ません。

枝が上手に別れないと、葉を満足につけることが出来ず、

葉がつかない植物は花を咲かせることが困難です。


最初の発達課題につまづくと、次の課題も、その次も、クリアすることに失敗します。

原因は陽の光が不足している、つまり、親から与えられて然るべき愛情が一切与えられていないこと、なのです。


思春期は生命をたぎらす夏を迎える為の、子供時代からの脱却の時期です。

茎を強くし、立派な葉をつけ、花を咲かす準備の総仕上げです。


ところが、この子は茎も葉も、満足に成長していません。

発達課題をクリアしていないのですから、総仕上げは出来ないのです。

だから、思春期に留まってしまいます。

思春期は述べました様に、限られた期間の特別な季節だからこそ、適切な意味を持ち、また嵐にさらされても持ちこたえることが出来るのです。

思春期は子供時代と、大人として自立する時代の端境期です。

発達課題をクリアした子であっても、大きな負荷がかかります。

それが、発達課題をクリア出来ず、茎が弱く、葉をまともに付けられていない状態だと、春の嵐に翻弄されてしまいます。

翻弄されても通り過ぎることが出来ればよいのですが、
じゅうぶんな成長を出来ていない状態では、先に進むことがままならず、春の嵐の最中に立ち尽くします。

その人は、春の嵐に立ち尽くし、風雨にさらされ、翻弄される様な人生を歩みます。

傍目には普通の大人であっても、心の中には春の嵐が吹き荒れています。

誰もが通過する思春期を、通過することが出来ず、生涯を通じて思春期の不安定や苦しさ、苦さを繰り返し味わうことになります。

言うなれば、生涯、思春期です。

限られた特別な季節だから、適切な意味を持ちますし耐えられますが、
生涯を通じて思春期に身を置くことは、苦しいのは間違いないと思われます。


心に春の嵐が吹き荒れ続けている人は、自分の心の状態を把握していません。
置かれている状態がわからないまま、翻弄される生き方になりがちです。


翻弄される人生に別れを告げたいと願うならば、

自分が苦しいということを知り、

その原因は何処にあるのかを知り、

ひとつひとつを腑に落とすことが必要です。


紐解けば、決して遠い道のりではありません。

願うとき、道は拓けると信じます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム







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