「困った人」になってみる
心の事に取り組み始めると、人格者になろうとしがちです。
はじめは、抱える「生きづらさ」をどうにかしたい。
もっと軽やかに生きてみたい。
そう思って自分と向き合おうと決めた筈です。
私の場合もまさしく、そうで自分と向き合って、ありのままの自分を解放しようと思っているのに、
いつの間にか、物分りがよく、優しげな、博愛主義の、なんともしっくり来ない何者かになろうとしてしまうのです。
生きづらさを手放そうと思い立つと、自分と向き合うことに取り組むと同時に、心について掘り下げて深く知ろうとします。
すると色々な書物から理想的な心の在り方を知識として得ることになります。
知る事は全ての始まりです。
自分の生きづらさを知ること、
生きづらさの原因を知ること、
知らなければ、手放そうとも思えない訳ですから、知ることは全ての始まりなのです。
そして、自分の生きづらさを知ったことを、きっかけに心の仕組みを探求します。
心理学、スピリチュアル、メンタルトレーニング、自己啓発、等など。
随分色々なことを吸収しようと努めました。
その結果、先に述べた、人格者になろうとしている自分に気が付きます。
心の事を探求するのは、何度も言うように、知ることは全ての始まりですから、とても有意義だと思います。
ただ、生きづらさを手放そうと思う時、先ずは、徹底的に自分と向き合うことが絶対条件です。
色々な事を探求するのは、生きづらさを手放した後にしても良いのかと思います。
なぜなら、生きづらさを抱えるに至った人は一部のレアケースを除いては、ほとんどが幼少期の環境に原因が有ると言えます。
幼少期に親から常に否定的な扱いを受けて、自分の存在を無価値に感じ、自分の感情を曲げたり、抑え込んだりした経験が有る筈です。
つまり無価値な自分の存在と感情を諦めて、親が望む優れた何者かになりすまし、親が望む感情を表現し続けた事が、生きづらさの原因と思われます。
幼少期に既に自分を諦めてしまっているのですから、思春期に差し掛かって、真っ直ぐな反抗期は、生きづらさを抱える人には無かった場合が多い様に思います。
自分を諦めた時点で、親の望む何者かになりすましているので、抑え込んだ自分の情動は心の片隅に淀んだまま放置されます。
この放置された感情が解放されない限り、真っ直ぐな反抗期はその人に訪れないと言えます。
仮に反抗期めいた時期が有ったにしても、それは放置されて淀んだ感情が出口を求めて漏れ出た状態であり、真っ直ぐな反抗期とは違った状態と言えるでしょう。
感情が放置されて淀んだ事の現れが生きづらさなのです。
生きづらさを手放すことを考える時、自分と向き合い心の隅っこに放置したままになっている淀んだ感情を味わい尽くすことが求められます。
色々な知識を取り入れて、物分りの良い人格者然とした何者かになることは、放置した感情にまたフタをすることになります。
幼少期に親から求められ、良い子になり、感情にフタをしたのと同じことを、
こんどは、自分が良い人になることで、再体験することになるのです。
自分と向き合い、放置していた感情を味わい尽くす前に、人格者を目指してしまうと、生きづらさからの解放は遠のいてしまうのです。
勿論、幼児の様に感情を全て発散することは難しいですが、感情を味わい尽くすことは出来ます。
全部発散することは無くても、周りから見て多少「困った人」になってみることは、必要だと私は思っています。
生きづらい人は、かつて自分を諦め、親の望む良い子にならざるを得なかった人です。
本来伸びやかな時期に良い子であることを強要されることは、幼児にとっては過酷です。
出来すぎた良い子が、飛び抜けた良い人になって生きづらさを抱え、
生きづらさを手放す決意をして、人格者を目指してはならないと思うのです。
一旦、周りから困った人だと思われていいと私は考えます。
良い子、良い人は自分に無理を強いて来た人です。
自分が自分を救済することを何よりも優先するのだ、と困った人になってみる覚悟を持つのもアリではないかと、私は思います。
そう腹を括った時、得てして思うほど困ったことにはならないとも思います。
心の奥底に放置された感情は、解放の時を待っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム
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