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「〜らしさ」とは

「〜らしさ」という言葉が、あまり好きではありません。

そこには、お仕着せがましい臭いがあるからです。

それも、その時代に都合のよい、世の中的に都合のよい、誰かに都合のよいカタチを求めるお仕着せです。

「〜らしさ」の直ぐ側には、「〜べき」が居る様に思います。

男らしさ
女らしさ
父親らしさ
母親らしさ
子供らしさ
お兄ちゃんらしさ
お姉ちゃんらしさ
警官らしさ
銀行員らしさ
先生らしさ
etc

先ず「〜べき」があり、それを誰かの都合で誰かにお仕着せる時、「〜らしさ」が使われる様に思います。

男とはかくあるべき、
女とはこうあるべき、
子供はこうあるべき、

とても画一的で短絡的だと思うのです。

例えば、戦時中に
兵隊たるもの、かくあるべき、
という雛形を作り、

それを皆にお仕着せたなら、
画一的な一糸乱れぬ日本軍が出来る訳です。
それを兵隊「らしさ」と呼ぶ訳です。

そこには、有無を言わせぬ全体が有り、個は無いに等しい様に思います。


上司がミスを犯した部下に
「君らしくないな」と苦言を呈します。

そこに有るのは、上司から見た一面的な部下です。
上司の都合に合った部下の姿であって、必ずしも実像と合致しているとは限りません。

「君らしくないな」は「日頃優秀な君がどうしてそんなミスを…。」という部下の存在を否定すること無く、ミスにフォーカスする言い回しであり、ビジネスライクな場面では、マッチするのかも知れませんが、個人的には血の通った響きが無く、好きではありません。

なぜ血の通った感じがしないのか、考えてみました。

多分、一方的、断定的に判断を下す感じが、有無を言わせない事に連なって見えるからだと思います。

日本軍やビジネスの場においては、まだしも、例えば、家族という本来、安心できて然るべき場所に於いて、

子供らしさ、
お兄ちゃんらしさ、
お姉ちゃんらしさ、
男らしさ、
女らしさ、

などに縛られて苦しんだ人は少なく無いのではないでしょうか。

本人が認識していない場合も多いと思いますが、

特にお兄ちゃんがまだ親に甘えたい幼い子だった場合、妹が生まれ、
突然、親から「お兄ちゃんらしさ」を求められた場合などは、

幼いお兄ちゃんにとっては、とても苦しい状況と言えます。

場合によっては、親の愛情を持っていった妹に「憎しみ」や「怒り」を感じ、

それを表す事が出来れば、まだいいですが、「憎しみ」や「怒り」を無理やり無かった事にして、

「妹が可愛い」という作った感情を表現し続けると、

ほぼ間違いなく、心は傷つきます。


「憎い」だけ、「可愛い」だけ、といった単純でストレートなものでは無く、

愛憎入り交じる感情を、抑圧したり、作ったり、誤魔化したりする事は幼いお兄ちゃんには過酷です。

親が充分にお兄ちゃんに配慮出来れば良いのですが、「お兄ちゃんらしさ」を無理に押し付けたなら、お兄ちゃんは「憎しみ」も「怒り」も抑圧するしか方法が無くなるのです。


時代や国が家族を作る側面は確実にあります。

私の親世代は第二次世界大戦の戦中派です。

画一的なのも、お仕着せが当たり前なのも、仕方が無いのかも知れません。

多様性を認めたり、個を重んじる時代では無かったでしょう。

その人達が親になり、時代は変わっても親の意識は画一的だし、お仕着せる訳です。

そうやって育てられた私達がまた親になり、薄まってはいても、どこかに画一的でお仕着せる名残りは有ると思うのです。

時代は過渡期にあり混沌としてはいますが、人々の意識は間違いなく進歩していると考えます。

あらゆる事に多様性を認めることは、画一的である事を求める時代からは、長足の進歩を遂げています。

色々な個が有ると知る事は、立場の違いを越えて、わかり合い、相手を慮る豊かさを手にする事と思うのです。

過度に「〜べき」に縛られ、
過ぎたる「〜らしさ」に執らわれる事は、

私達を豊かさから遠ざける事になりかねないと思っています。


私は人に対して

「らしさ」という言葉を使うことが

どうやら好きでは無い様です。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム


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