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母さん、僕は太陽にも神の子にも勇者にもなれないんだよ

ギリギリまで気がつくことが出来ませんでした。

NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。


幼い日心は砕けた


人生詰んだな、と言ったりします。
終わったな、と言う意味ですね。

「底打ち体験」とも言ったりします。
人生のどん底、これより下は無い、と言う意味です。

私ノゾムは、そこまでいかないと自分が「生きづらさ」を抱えていることにすら、気がついていなかったのです。

勿論、生きていて苦しいんです。
いつも苛立っています。

しかし、苦しいのは、皆苦しいんだろうと思ってました。

苛立つのは、自分はそう言うトゲトゲした性格なんだろうと思っていたんです。

両親には、人並み以上に愛情を注がれ、暖かい家庭で生まれ育ったと信じてました。

確かに、幼い頃、周りの友達は、親に甘えたり、わがままを言ったり、時にはしがみついて泣きじゃくったりするのです。

私は、それを見て、
「みんな甘やかされている。」
「愛されていたら、厳しくされる筈だ。」
「お父さんもお母さんも、お前のためを思って、といつも言っている。」

そう思って、周りはバカだ、と冷ややかに眺めてました。

友達親子のそういった景色に出くわすと、たまらなく不快な感情を覚えていました。

今は、はっきりと、そんな時どうしようも無いぐらい羨ましかったんだ、と解ります。

私は、母にしがみついて泣きじゃくってみたかったんです。

私は母から常々、
これは、お前のためを思って言うけど、と前置きした上で、
「お前の泣き顔は、見たことが無いぐらい醜いから、二度と泣いたらダメだよ。」
と釘を刺されていました。

母は、私に太陽の様に明るく、神の子の様に聡明で、勇者の様に強い事を求めました。

当然、私は太陽にも、神の子にも、勇者にもなれないので、いつ如何なる場面に於いても、痛烈に批判される幼少期でした。

太陽になれない私を なじる 時の前置きは、「お前の事を思って言うけど」です。

私は母の膝に乗った覚えも、ましてや抱かれた覚えも、頭を撫でられた記憶もありません。

大人になってから母に、自分は膝に座ったことがあるか、と尋ねてみました。

すると、
「お前は冷たい子で、そんな事をする事は無かった、親はどれだけ寂しい思いをしたか解るか。」と。

いやはやなんとも、です。


母もまた


母も、私から見た祖父母から同じ様に育てられたのだと思います。

母も余りにも生きづらく、耐えかねて反抗しない存在に、生きづらさを全部背負わせたんだと思っています。

そうすることで生き延びた母は、もう自分の生い立ちや、心の傷に向き合うことは無いでしょう。

80歳も過ぎ、随分小さくなりましたが、自分に生きづらさを背負わせた祖父母を「優しい」と言い、自分を「愛情深い」と評します。
そのファンタジーの世界でしか、生きられない人なんだと理解しています。

私ノゾムも、たまたま人生のどん底に突き当たるまで、ファンタジーにしがみついていたのですから、
幼い頃に過酷な環境で育った人が、その事実を受け入れることが、どれほど難しいかは、身をもって体験しました。

生きづらさを背負って歩くのも、本当に辛い事ですが、辛いだけに自分は親から愛されたと信じ込まないと、生きることが難しいのだと思います。

全部失うくらいの底打ち体験が無ければ、私は気づくことは無かったのかも知れないと思います。

また、親から愛された、と思い込んだ日々が無かったなら、若い自分は事実を目の当たりにして、果たして生き延びることが出来たのだろうか、とも思います。

母が生涯気づかない様に、
私がギリギリまで気づかなかった様に、
親から愛されて無かった、
親は愛する力を持ち合わせていなかった、
ということに気づくことは、
辛くて、怖くて、難しいことだと思います。


気づきと決断


おそらく、この文章を最後まで読んで下さる方の中には、既に自分の生い立ちの認めたく無いことに気づかれている方もいらっしゃるのではないか、と考えます。

私はどん底に落ちるまで気づけなかったことに、ご自身の自己洞察によって気づかれることは、本当に偉大なことだと思います。

よくぞ辿り着いて下さったと思います。

辿り着いて、生きづらさを手放したいと願う時、段階があります。

知る段階と、お腹に落とし込む段階です。

先ず最初で、最も難しいのが 知る ことです。

前述しました様に、愛されて育ったと信じている人が、そうでは無かった、虐待されていた、と知ることは、本当に難しいことだと思います。

この段階は揺らぎます。
親に怒りや恨みも覚えます。
生きづらさに沈んだ若い日々への喪失感も感じます。

受け入れ難きを受け入れようと言うのですから当然の感情です。

感情は自然に湧き出すものです。
止めることは出来ません。
ここで感情にフタをして、無いものにしてしまったら、幼い頃に親があなたの感情をないがしろにしたことの焼き直しになってしまいます。

どうするか、

湧き出した感情を味わい尽くして下さい。

残酷なことを言ってます。

残酷でも感情にフタはしません、味わいます。

その時、こんなにも触れたくない心の傷を正面から見据える自分の勇気を褒め讃えて下さい。

幼い日に負った心の傷は、この世の何よりも恐ろしいものです。

それと対峙するあなたは掛け値なしに尊いのです。

次はお腹に落とし込む段階です。

知って、感情を味わったら、心の傷を取り払いたい、という衝動は自然発生的に現れます。

知って、感情を味わって、勇気を讃えたなら、その勇気は決断に変わります。

決断を持って、心の傷を取り払うことで、生きづらさは失くなります。

生きづらさが無くなる代わりに、現れるのは、これまで手にした事の無い本当の 自信 です。

知る段階で感じた、怒り、恨み、喪失感などの感情も、

ま、いいか…。

と思える大きくて、強い自分を感じます。


知ることが全てではありませんが、
知ることが全てのはじまりです。

そこに辿り着いているあなたは、
もうその時を迎えています。

望むなら、必ず…。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム






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