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音楽(芸術)は環境問題を改善できる:発信のもう1つ手前の話

環境問題という逃げられない問題が、私たちの上の世代から引き継がれ、恐らく私たち以降の世代まで宿題となって、いや連帯保証として人々の頭を悩まし生活を脅かすことは前回までに書いている。


活動家が陸上競技場に侵入した理由は何か


正直にいえば、人工知能やスマートフォン、そして軍事的な技術などがこれ以上進歩しなくても、未来の世代は何も困ることはないが、
「隣の国が開発を止めないのであれば、自分たちだけがそこに遅れをとることは受け入れ難い」
と言って、犠牲とリスクを引き換えに開発を進めるのである。そして犠牲とリスクの最たる例は環境問題である。繰り返しになるが、上述したような技術進歩など未来の世代にとってそれほど重要ではないが、
最も重要であるはずの住む場所と食べるもの、吸う空気や飲む水の問題はいつも後回しにされ、それが受け継がれるという暗黙の約束は破棄され続けている。

と、このように環境問題について嘆きつつある人間は一定数には達しているが、そこから先は全くと言っていいほど進んでいない。気候変動や環境問題について声を上げる人は多くいるが、彼らに注目して共に活動する、または自分の生活の中だけでも意識するということを実践している人はまだまだ少なく、これらの問題が改善される絵は誰も描けない。

環境問題活動家が陸上競技トラックに侵入して選手を脅かす存在になったり、世界的名画に塗料をかけたり、大きな街の交差点でデモをしたりするニュースが取り上げられることがあっても、彼らの活動に目を向ける人は殆どいない。

しかし誤解を恐れずに言えば、私は彼らのそうした迷惑行為を肯定こそしないが、気持ちは理解できる。
なぜなら、私と同じように、彼らは気候変動や環境問題といった難題が急を要しており、できるだけ早く、というより今この瞬間にでも、全ての人類がこのことを問題視し、環境破壊のために作り出されたような明らかに間違えた大量生産大量消費社会に1人の消費者としてメスを入れなければいけないと信じているのだと思うからだ。
つまり、国境や人種など関係なく全ての人に目を覚まして、頭を冷やして環境問題や気候変動について考えて欲しいということを切に願っているのだと思う。急を要しているのだ(と少なくとも彼らは思っている)。

どれほど急を要しているかは残念ながら現代科学が解明できていない部分ではある。2050年には海の魚よりもゴミの方が量が多くなるといった割と具体的な解明が成されている一方で、空気が汚れて人々がガスマスクレベルのマスクを持たなければ外に出られなくなる日はまだ明らかにできていない。
かつてオゾン層が人間の活動により壊れかかった時があったが、その時は深刻な衛星写真を見た人々と各国が急ぎ対策をして、オゾン層の回復を成し遂げた。
しかし、そんなに分かりやすく訴えかけるような証拠を、今の環境問題は示せていないのかもしれない。


このような写真や、動物がゴミによって殺されている写真は多く出回っているが、多くの人々の行動を促すような証拠にはなれていないようだ。

そうだからと言って、指を咥えて眺めていて良いわけがないが、実際は多くの人が問題の深刻さがイマイチ分からないことを理由に、殆ど何も取り組んでいない。
マイカップを持ち歩いたり、マイボトルを持ち歩いたり、包装なしでバラ売りをしている野菜を買ったり、大量生産廃棄している大型チェーンの衣服を買わないということが、環境問題の改善に貢献することを知っていても、実践する人は少ないというわけだ。

そのような人々(殆ど全ての人類だが)に向かって、「とても深刻なんです、一緒に行動してください」と呼び掛けるのに最も有効な手段は何か。
私のように、文章という形で、または多くの人がやっている動画という形で世の中に発信していくことは、どれほど効果があるだろうか。この記事が届く人はごくわずかで、そこから読む人はさらにわずかで、声が届いて共に行動してくれる人はもはや数えることができるほどだろう。
そして、もし仮に、非常に急を要していて、今年中にみんなが行動し始めなければ地球は取り返しのつかないことになるという仮説が存在したら、または今年と言わず今月だとしたら、私のように小さく小さく活動しているのなど、もはやほとんど意味がないという結論に至るだろう。
なぜなら、私の声が何かの拍子に全世界の人に届いたとしても、その頃には地球は余命カウントダウンを始めていて、それを止めることはできないという状況に陥っているからだ。実際にそうかもしれないし。

となると、もはや世界中の人に注目されるには手段は選べない。優先順位などというものを彼らが考えているかはさておき、アスリートの記録よりも、モネの名作よりも、人々の通勤時間が遅れることよりも、環境問題の方が重要であると考えることはできる。なぜなら、モネの名作が1枚無くなっても、アスリートの成績が無効になっても、あなたが明日の通勤に30分遅れたとしても、未来の世代にとっては痛くないからである。
それで若い人々や未来の世代の子が、健康と住む星を失うことはないからである。けれど、環境問題を後回しにすると、それらの悲劇は起きうる。

確かに、やり方は適切ではないだろう。アスリートにとっては危険もある。ただ、ニュースのコメントを見ていると、そのような過激な環境活動家の行動に対して、
「このようなやり方で人々が活動を見てくれると思うな」
といったものがある。このようなコメントを見ると、もはや環境問題に対して全ての消費者が責任を背負わなければいけないという考えが全くないのだと思い知らされる。消費者の1人として環境問題に目を向けることは、義務と言えることであるはずだが、「目を向けてあげる、あげない」と言った全く的外れな立場を取っていることに、呆れと憤りさえ覚える。

さて、日本のマスコミ含めジャーナリストたちは、環境問題に活動するこのような活動家のことは、今回のような事件や大規模なデモが起きれば報道するが、彼らの主張や環境問題が私たち全員の話であることを、殆ど伝えない。そして、伝えたとしても、私たちの大半はそのような報道を心に留めることはないだろう。それが何故かを説明するのは難しいが、端的に言えば環境問題における自分の責任を放棄している人があまりにも多いからだ。

発信というやり方は正解か

では、何をするのが正解か。答えは発信になってしまう。誰かの活動を邪魔しない発信である。しかし私の知る限り、そのような発信者は十分にたくさんいる。分かりやすくデータや写真を駆使して、この問題について深堀りして、消費者全員の意識が向くように工夫された発信はいくつも目にする。

※下の記事内で発信者を紹介しています。


発信する人と、それを受け取る人、即ち行動しなければいけない人々、つまりこの問題をイマイチ自分ごととして捉えきれない人々の溝をどうやって埋めるか、そして共に活動するために必要なのは何か。恐らくこの溝を埋めていくことが、今求められていることだと思う。


環境問題

環境問題について調査する人(研究者など)

調査内容を調べまとめる人

内容を発信する人(動画や文章など)

【ここに溝があると思う】

聞く人、一般人

つまり、そもそも発信者の声を聞こうとしない人、全く興味を持っていない人が多いからこそ、彼らへのアプローチが必要なのではないだろうか



求められている発信者

世界的に有名な人のスピーチは、多くの人に届き、かつ付加価値を持つ。気候変動の活動家として知られるスウェーデン人女性グレタさんは、国連でのスピーチによって有名になったが、彼女のように若さやインパクト、国連という場所という点で価値を持ち多くの人に声を届ける方法もあるだろう。または、以前も紹介したが、ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領の国連でのスピーチも心に残るものだった。彼らのような行動が、環境問題に目を向ける人を増やしたことは言うまでもない。
けれど、それでも政治家や活動家と呼ばれる人々の声に耳を向ける人は、元々様々な問題に責任を持ち行動している人たちである。全くそのような声を聞かない人にとって、つまりは社会問題からもっと距離を置いて生活している人々に、何か届けることができる人がいるとしたら、それはどんな人だろうか。

音楽は救世主かもしれない

ここで1曲聞いて欲しい。精神的な病や障がいと呼ばれるものを抱えている人のことを歌った、日本の人気音楽グループ「SEKAI NO OWARI」の「銀河街の悪夢」である。ファンを除いて初めて聴く人が多いと思うが、どうか泣いても最後まで心落ち着かせて聞いて欲しい。

何を感じただろうか。作者本人が経験したことだと言うが、その辛さや大変さ、同情、共感、言葉にならない何かを感じたのではないだろうか。文面上では、そして知識としては知っていたかもしれないが、心に残り、できることならもう少し知ってみたいと思った人もいたのではないだろうか。
これほど重いとされるテーマを歌い続けることができる音楽家が今の日本にどれくらいいるだろうか。
日頃目を向けていないかもしれない。このようなテーマについて、この曲は間違いなく人々の興味を引いたと思う。これこそが、環境問題における発信者と傍観者の溝を埋める手立てではないだろうか。

音楽というのは、人々の心にメロディーとして残り、歌詞は全てを伝えなくても人々に訴えかけるものがある。それは単に知識だけではなく、共感や同情、喜怒哀楽と使命感といったものを人々に与えたり、人々と共にしたりすることがある。
ただ、知っての通り音楽と一言に言っても、現代の人々が聞く音楽の大半は娯楽である。それは芸術というのには少し違い、人々の共感を呼ぶという意味では音楽であろう。ただ、芸術とは言いきれない。芸術とはそれだけではないだろう。
私の知る限り、人権や政治、社会について歌える音楽家は殆どいなくなってしまった。いたとしても、人目に付きやすい舞台から去ってしまった。
音楽業界はビジネス至上主義の世界へと化し、売れないテーマや尖った表現は減っていった。それはお金にならないからであろう。反感を買いやすいからだろう。スポンサーが付きにくいからだろう。反政府的な芸術家は活動場所を失い、お金を稼ぐのが難しくなってしまっただろう。社会を風刺する芸術は日本では鳴りを潜め、誰も音楽を介して社会問題に目を向けることはなくなってしまった。環境問題なら尚更。

音楽家、芸術家の皆さんへ

けれど、もし仮に、有名になりたいという理由以外で音楽を始めた音楽家がまだこの世界にいるのなら、私は音楽界こそ環境問題における救世主的な存在になれると思っている。きっと何かに向けた強い思いを持って音楽を始めた人がまだまだいると信じているからこそ、そのような人々に共に歩んで欲しい。日本中の若者を虜にした音楽家は溢れるほどいるが、私の知る限りほぼ誰も環境問題や社会問題について歌えない。想いはあっても歌えない。それで良いのだろうか。
友情や恋愛や別れについて歌うのは娯楽として求められているが、それでは平安時代の貴族の短歌と同じなのだ。つまり、それは社会を正すという芸術の真骨頂を失った殻のようなものであるということだ。
芸術家こそが琵琶法師になって反政府的に平家物語のようなメッセージを歌わなければいけない、例えば「盛者必衰の理をあらわす」などと。
ボブ・ディランが黒人の権利のために歌い、ジョン・レノンが世界の平和のために歌う、USA for Africaが貧困問題について歌い、甲本ヒロトさんが人種差別問題について歌う。現代社会は社会問題を歌う彼らのような芸術家を求めてきたし、それはまだ終わっていないだろう。

今は過渡期だろうか。なぜこれほどまでに環境問題について騒がれていても、日本人の音楽家はここをピックアップできないのだろうか。誰も問題視していないのだろうか、そんなわけはないだろう。誰もそんな熱い想いを持っていないのだろうか、いやそんな失礼なことは言うつもりはない。築き上げてきた地位や名誉を失うことを恐れている可能性はあるだろう。ただ、それを払い除けてでも世に訴えかけるのが表現者であり、芸術家であり、歴史に名を遺す本当の意味の偉人なのであろう。

芸術は社会問題を追えているだろうか

無論、芸術とは音楽に限ったものではない。美術や文学、音楽の一部かもしれないがラップにも及ぶものである。ラップは比較的、社会を風刺する文化がしっかりと残っている印象だが、それでもまだ足りないだろう。美術はどうだろうか。
ゴミアートは発明だと思う。ゴミ問題について知識を広め、理解を深める一歩目としての役割を十分に果たしているだろう。その他の美術はどうだろうか。バンクシーという正体不明の画家はイギリス人らしいが、彼のように社会問題について提起する画家を私たちは掘り起こさなければいけないだろう。
※バンクシーのInstagram

文学界はどうだろうか。社会問題や環境問題について書かれた本はたくさんあるだろうか、小説や絵本は当たり障りのないことに逃げてはいないだろうか。小説は確かに娯楽の側面があるが、もっと発信しなければいけないことがあるだろう。
漫才師という立場から社会問題を切ったウーマンラッシュアワー、私は当時から彼らが好きだったが、私たちは彼らに十分に耳を傾けただろうか。正しかったが故に耳を傾けなかったのだろうか。いずれにしても、今、彼らのようにエンターテイナーの立場から社会問題について言及できる骨のある人は、そういないだろう。
※ぜひ漫才を見て欲しかったのですが、公式動画を見つけることができなかったので、YouTubeなどで動画を見てみてください🙏🏻

ここまで書いて、私が音楽家や芸術家に、環境問題や社会問題にメスを入れるという仕事を投げているように思うだろう。そして、それはおおまか正しい。私は音楽を作ることも、絵を描くこともできない。仮にできたとしても、無名の人間がそんなことを始めるのは、単純に発信するよりも遠回りかもしれない。名のある芸術家がやった方が効果も価値もあるだろう。それは言わば彼らの使命とも言えようが。
ただ、私としてもただ投げかけるだけで終わりたくはない。小説は趣味程度では試しがある。人々の心に残るような作品を書ける自信はないが、やってみようとは思う。私自身も毎回発信をするよりも楽しめるかもしれない。

芸術という可能性は発信の最善策

芸術は人類が発明したものの中で、最も価値があるものだと思っている。ここブルキナファソでは、学校もろくに行ったことがない子供が、13年前のサッカーW杯南アフリカ大会の主題歌を口ずさんでいる。彼らはきっと歌詞の意味もまともには分かっていないだろうが(私もよく知らない)、耳に残るその歌は彼らの心の中に生き、いずれその意味を知る年齢になった時、何かを感じさせるだろう。
仮にその中に環境問題についての投げかけがあれば、調べ始めるきっかけになるかもしれない。その中にゴミ問題についてのメッセージがあれば、ポイ捨てを止め、無駄な消費を見直すかもしれない。
芸術は私たちよりも長く生きる。今の世の中に何が必要かを私たちが知っていることも、そのために活動した人がたくさんいることも、芸術は後世に伝えることができる。サッカーの主題歌が、当時生まれていなかった子たちの間で受け継がれているのと同じように。

全ての芸術家にお願いしたい。娯楽家ではなく芸術家の魂を持つ皆さんに、共に進んでくれることをお願いしたい。風を切って進むことをお願いしたい。きっと芸術家の心を持つ人はたくさんいるだろうから。

長くなったが、逃げきれない環境問題というテーマについて、私たちは逃げることを止めなければいけない。そして、この記事を読んでくれるような人は、多かれ少なかれその関心を持っているだろうから、始めることをオススメする。そして、この記事に辿り着かない人々を動かせるのは、きっと芸術である。
また会いましょう、近いうちに小説回を書きます。


また会いましょう。最後までありがとうございます。

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