見出し画像

 年越しで実家に来た。例年通り。
一つ違うのは、この家の主がいないということ。
 20年前に初めてここに来た時、義母はポケットがたくさんついたセーターを着ていた。それぞれのポケットの形が服や入れ物の形をしていて、その内の一つにちょこん、と小さなくまのぬいぐるみが入っていた。
母は緊張する私に「ほら、ここにも入っちゃう」って自分のセーターのあちこちにくまを移動させて見せてくれた。義父はその隣でニコニコ穏やかに笑っていた。

 20年が経ち、両親は手に手を取る様にして相次いで天に召されていった。私たちはこの思い出が詰まった家を両親の名を取って「英公庵」と名付けた。よく調べてみると「庵」とは質素な小屋の意味だったのでそれでは失礼だとは思ったが、私のイメージでは「風流人など浮世離れした者や僧侶が執務に用いる質素な佇まいの小屋(wikipediaより)」こちらの方がピンとくる。家の規模の質素さではなく、穏やかにしなやかに社会を支え、でもプライベートはクリスチャンとして「足るを知れり」「感謝」の気持ちを忘れずに心豊かに生きていた義両親の生き方そのものがこの家にある気がして、上質で豊かな質素という意味を込めて、そう呼ぶことにする。

 義母がおでんや雑煮の出汁の湯気をもくもくさせながらキッチンにいる年末は、予告もなく去年が最終回。今年は私たちがいつもの日常をこの庵に連れて来た様な年末。それでもここの空気や温度がこの時期の特別感を与えてくれる。今年は夫や子どもたちと、両親の思い出をなぞり引き継ぐ様に過ごそうと決めて、それぞれの思い出の中を探る。

 両親お気に入りの紅葉の木の下には落ち葉がいっぱい。落ち葉かきをしたら、綺麗な色の土が出てきた。義父が育ててきた土だ。
朝起きると、早起きの義父が庭の草抜きをしていた。毎朝するから庭はいつも綺麗でふかふか。同じく早起きの私がお茶を煎れるタイミングで、戻って来たら食卓で一緒にお茶をすする。特に会話するわけでもないけれど、物静かで温かな義父との間には特に言葉を交わさなくても心地よい雰囲気があった。

 予想はしていたけれどこの時期をここで過ごすことで、義両親がいないことを改めて強く感じる。淋しさや悲しさがスーッと何度も私たちの前を過ぎ私たちを撫でるけれど。喪失感よりも出会えたことへの喜びを感謝したい。

読んでくださって、ありがとうございます。 もし気に入ってくださったら、投げ銭していただけると励みになります💜