弱い人 強い人

 私は人一倍感受性が強い。少し強い言い方をされると「怒っている」と感じるし、大きな物音を立てられるのは苦手。それでも普段は笑って過ごせるようになっている。そんな私だから、周りの人は私が敏感だとは思っていない。それでいい。私が敏感だと知られてしまったら、私はきっと自分が他の人とは違うと自分を責めてしまうから。そういう癖がついてしまっているのだ。

 私は敏感だけど、強い人間だと自分で思っている。意志はしっかりしている。熱い想いを持っているけれど、人に伝える時はソフトに、を心がけている。それを向けられた人が引くのを見るのも怖いから。
それでも私は強い。魂を売ることは絶対にしない。偉い人が言うからといって、私の意志に反することはしない。自分の違和感は宝物だと思っている。
そう思えたのは、つい最近のこと。若い頃はただ自分は弱い人間なんだと思っていた。ビクビクして、大人数と会うと疲れる。いじめられている人が自分の状況に自分で気付く前に、私が泣く。悲しいニュースを見て苦しくなる。そんな自分は弱いんだと思っていたけど。それが私が持って生まれた宝物なのだと、あるネットの記事で気付いたのだ。

 それからは気が楽。私にしか見えていないものがあるのなら、それを使って人のこんがらがった部分を解くお手伝いが出来る、と自分の力に感謝さえした。それが今指導者という立場で活かされている。

 ある学校の先生が生徒を酷い言葉で何日も罵倒し続けた後、生徒が学校に来なくなった。それを見ていた他の先生が「あの子は思ったより弱いですね」と言った時、黙っていられなくてこう言った。
「弱いとか強いなんですか。あの子が先生と分かり合えなかったのは、あの子と先生の人間関係の問題なのでは。」
弱いという言葉で相手に一方的に原因を押し付けてそれを解決とする人をよく見るが、それは全くおかしなこと。少なくとも共感や理解、信頼を教えるのが人生の先輩である大人の仕事で、一方的に上から物を言っておいて伝わらなかったら自分の方法を振り返らず相手が弱かったからだ、とする人に本当にガッカリした。

 パワハラ、モラハラなどと呼ばれるものはそういうことだろう。
伝わるように伝えなければ、それは伝えたことにならない。自分の伝える技術や指導の技術とは向き合わずに人のせいにしてその場をやり過ごそうとする人を、私は「弱い人」だと思う。子どもたちに間違った認識を与える前に、その「強い」と「弱い」の考え方を改めることが大切だ。
 人のせいにして逃げる大人が多い中で、私は自分と向き合い、相手と向き合い、本当の「強さ」を見せる大人として生きていたいと思う。そういう指導者、そういう大人が増えてくれることを切に願う。

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