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「不安」という感情

コロナ騒ぎで空っぽになったホノルルのスーパーの棚を見ながら、「不安」が胸からお腹の辺りにうっすら広がり始めた。「果たして、この太平洋の真ん中の小さな島に、十分な食糧があるのかしら...」。もう一個パンをカートに入れるかどうか迷いながら、「いやいや、うちにお米あるし。いざとなったら小麦粉で何か焼くこともできるし。主食というなら豆もある。まだ、大丈夫だろう」と理性がたしなめた。

いつもならぎっしり卵のパッケージが並んでいる棚が、こちらもガラガラで、残っているのは6個で6ドルと表示されたプラスティックのコンテナ入りのもの。そうまでして卵を食べなくてもいいか。

そもそも、ぎっしり卵が並んでいる、という光景の方が異常なことなのかもしれない。いついかなる時もお客様のニーズにお応えできるようにしてなくてもいいはずなのだ。卵がないと他に食べるものがないというわけじゃないのだし。急にレイオフになったレストランで働く若者たちや観光業にたずさわる友人たちのこと、スイスイ走れる道路や空気がきれいになった中国上空やイタリヤ北部上空などのことも含め、コロナはいろんなことを考えさせてくれる。私も毎日が日曜日状態だ。

以下、エコマム記事です。
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親である「不安」
年末から新年にかけて子どもが被害にあう事件が相次いだ。子どもを持つ親として、人ごととは思えず、気をもみ、不安を感じ、「どうしてそんなことを!?」という、怒りともむなしさともつかない感情にとらわれた。

そういえば、親になってから「不安」や「心配」という感情がいつも近くにある。お腹のなかにいるときから「大丈夫かな」「ちゃんと生まれるかな」と心配し、生まれた後も夜中に、ふと「息してるかな」と赤ん坊の顔をのぞきこんだり、触ってみたりしたものだ。

一人で動き回るようになったらなったで、車にぶつからないか、電車のホームから落ちないかと思わず手を強く握りすぎて、「痛いよー」と子どもから叱られたり。

幼稚園や小学校では、先生との面談で「ここはよくできている」と言われても、本当はどうなんだろう、本当はダメなところなんじゃないだろうかと気になる。もちろん「ここはちょっと」ということを言われた日には、「これは大変、一大事。この子は将来、どうなってしまうんだろう」とばかりに不安になったりしたものだ。ほめられても気になり、指摘を受ければ当然、気になる。どちらにしても、不安や心配がやってくるのだ。

「親ほど因果な商売はないなー」と自分の不安・心配ぶりにはあきれてしまう。そして、あるときから、「親というのは不安、心配するものなのだ」と覚悟ともあきらめともつかない信条を持つことにした。そう思ってみると自分の親が70代になっても、40代の娘にあれこれ言うのがわかる。世の親があれこれいっぱい言いたくなるのは、不安や心配の裏返しなんだ、と。

「不安」や「心配」とのつき合い方
不安にとらわれているときは、だいたい「~なったらどうしよう…」というせりふが頭の中を駆け巡っていることが多い。心理療法の一つに論理療法(認知情動療法)というものがある。これはうつ状態の改善にもよく使われる方法なのだけれど、その方法の説明でいくと、「どうしよう…」の状態で放っておくと、不安が高まるのだという。自分なりの「~なったらこうしよう」を見つけておくことが大事だというのだ。

なるほど。そうか。
明日は遠足。「もしかして、寝過ごしたらどうしよう…」〜遠足がすべてじゃないし、遅れて追いかけてもなんとかなるし。お弁当のご飯が炊けてなかったらどうしよう…」〜大丈夫、大丈夫。レトルトのチンもあるし、最悪の場合、コンビニのおにぎりもある。
「不登校になったらどうしよう…。」〜これには慣れている。だれもが不登校になる可能性があるのだし、ゆっくり過ごせば自分なりの何かを見つけていくものだから。なんとかなる。
「じゃあ、大地震がきたら?」う~ん。絶対、大丈夫っていうものは見つけられないけど、それなりに備えをして、後は天に任せるしかないよ。水ぐらいは用意しておこう、といった具合。

すべての不安に応えられるわけではないが、自分なりの「~しよう」を見つけておけば不安に翻弄されることからは、なんとか距離がとれる。

そうそう、今年の目標。「できることを淡々と」。これも心配や不安とつきあう方法のひとつだ。

それにしても、今頃、子どもたちはどうしてるのかしら…。(だから!!)

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