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なにもかも地球から

ふふふ、もう一つ、みーつけた! あひるちゃん、癒されるわぁ。10年前に書いた記事を読んで、大地への感謝があふれる文化の地、ハワイに来ていることにびっくり。にもかかわらず、ちゃんと感謝の表現をしてなかったなぁとも。

以前、会ったクムは海に行くときに塩を持ってって、感謝をあらわすのもいいよ、と言っていた。レイとか花だとかえって海を汚しちゃうからね、とも。地球への感謝、ハワイだと日常のことなのかもしれない。

なにもかもが地球から

この間、窓ガラスに映る町並みをバスの中から眺めながらふと、思いついた。「あら、人間が自分でつくりだせるものなんて、無いんじゃないの!」。あの窓のガラスだって、バスの車体の鉄板だって、地球をほっくり返して引っ張り出してきたものが原料だ。毎日食べている食料も、仕舞いどころに悩むほどになった洋服も、もとはといえば、地球の生み出した、土のなかから育ったものを原料に、あるいは育ったものを餌にして育った何かが原料になっている。

石油だって別に人間が造ったものじゃあない。あらま~。こんなに一方的に依存している状態って、なんだか申し訳ない感じ。

娘に話したら、いまさら、何言ってるんだとあきれられた。「この間、理科の先生が言ってたよ」と予想外にリアクションが平板。「そうか、みんなは知っていることなんだ」と半世紀も生きてからの実感にトホホ。

それにしても、これほど全てを地球から掘り出し、掘り出し使っているのだということをリアルに感じ取ったことは今回が初めてのような気がする。数ヶ月前のニュースで、石油を掘り出すのに、新たな技術が加わって、これまで汲み出せなかった部分まで、効率的に吸いだせるようになった、というようなことを聞いたからかもしれない。そのときに、そんなに吸い出してしまって、後の空隙はどうなっているんだろう? と心配になったのだ。

そして、それからの連想で、地下水を使ったミネラルウォーターとかをバンバン汲み出したら、その後、新たに水は滲みだしてくるのだろうか? 地下水だって、今、しみこんだ水が出てくるのに何年間もかかるはずだからだ。汲み出す量のほうが滲みでてくる量より多ければ、やがて水はなくなってしまうのではなかろうか。そして、その後の穴はどうなってしまうのだろう、などなどの疑問がフツフツとわいてきていたところだったからかもしれない。

こんなにお世話になっているのに、地面というか地球に対してお礼をしているだろうか? 「してないな~」とますます申し訳ない気分になる。お礼をするどころか、ゴミを埋め、核燃料の廃棄物を埋め、私が地球だったら「やってらんないわよ!」と怒り出しそうな仕打ち。

以前、習ってた中国武道の先生が「地面を蹴ってはいけません。地面には敬意を払わなくてはいけない。だから、歩くときも戦うときも地面は蹴らない」というようなことをおっしゃっていたことが思い出される。

さらに、ティクナット・ハンというベトナムのお坊さんが「歩く瞑想」をするときに、一歩、一歩をすご~く大事に歩くのだけれど、足の下、大地のことを大事に思いながら歩くというお話なども思い出した。

ああそうか、とここから、やっと、いろいろ納得し始める物分りの悪さなのだけれど、お祭りや儀式やなんやらかやら。神様的なるものに対してのお礼なんですね。秋祭りやお神輿などと、地球や大地へのお礼といったようなことが今頃になってリアルに感じ取れるようになる。やっと、いろいろなことが、つながってきましたよ。

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