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誓って恋愛感情ではない

彼は、哲学者のような手をしていた。

これは、私がある人間に人生を狂わされたと思うに至ったために、それを記録として残しておくものである。

この文章がどう着地するのかはよく分からない。
完全に見切り発車である。

私は現在都内で大学院生をしている23歳女であり、彼は、私の大学1年生の頃からの友人で、親友というか、悪友というか、そんな関係であった。

思慮深く、好きな作家は村上春樹と谷崎潤一郎で、趣味は将棋と哲学書を読むこと。どこか厭世家で、理屈っぽくて、面倒な人間だった。
元来私は感情で動く人間だが、彼と話すときは理論武装が必須だった(私が彼と話す時に、自分の感情的な部分を隠すことを「理論武装」と呼んだのも彼だ)。
彼の部屋には、本棚いっぱいに純文学と法律書と哲学書が詰まっていた。それを、哲学者のような骨ばった、しかし妙な色気と繊細さのある手で読んでいた。
黒縁の眼鏡に、ひとり暮らしにもかかわらず丁寧にアイロンが掛けられた白いワイシャツ。ひょろっとした体格だが、筆圧が強いところに頑固さとどこか捻くれたところが表れていた気もする。

大学時代、彼と私を含む仲の良いグループ数人で飲みに行くこともあれば、2人で飲みに行くこともあった。
2人で飲みに繰り出すと、昼過ぎから終電近くまで飲んでいることもあった。互いに酒が強かったこともあるが、文学や詩歌、哲学、互いに専攻していた法律、それから、恋愛、欲、人間、そんなことを思いつくままにだらだらと喋るのが楽しく、いつも気づくとあっという間に夜が更けていた。

私が大学生活で出会った人間の中で、心底頭が良いなとため息が出るのは、やはり彼である。成績も良かったが、それは自ずとそうであっただけで、彼の頭の良さはもっと違うところにある。思考の深さとそれを表現する力が、並みの大学生から頭一つ抜きんでていたと思う(そこそこ学力の高い人間が集まる大学ではあったが、その中での「並み」よりもやはり次元が違うような印象だった)。

彼を語る時、私はどうしても贔屓目になりがちだというところは自覚している。彼の友人間での評価も十分に高かったと思うが、私はある意味で彼の能力を神格化までしていたような気もする。
私が特別な人間ではないと私自身に知らしめたのは彼の存在であった。どう努力しても届かない、そういうものがあるのだと知った。彼には憧れていた。いや、才能に嫉妬していた。どうしたらそんな考えが生まれるのか、どうしたらそんなに的確な言葉を言い当てられるのか、彼の頭の中を覗いてみたかった。

そんな彼だが、恋愛に関しては大の初心者であった。
彼が好きになるのは決まって明るく社交的な、彼とは正反対の人間であった。何度か告白もして、当たり前のように振られていた。私はその度、友人として相談に乗った。才能に満ちている彼が、あっけなく振られる様子は滑稽で、彼に憧れつつその才能に嫉妬していた私は、傷心の彼が暴力的に酒を流し込む様子をどこか面白がっていた。

翻って私は、大学生活で途切れることなく恋人がいた。
私は決して美人ではないが、妥協を覚えた上で要領よくやれば恋人は作れるのが大学生というものだろう。特に女性は。
そこそこ好きだった人も、あまり好きじゃなかった人もいた。
私もよく彼に恋愛相談をしていたと思う。
昔、彼に「君は私のことを絶対に好きにならないよ」と言ったことがあった。「好きになんかなるなよ」という意味だった。あまりに気が合う友人すぎて、恋人なんていう俗な関係にしてしまうのは惜しかった。

上手く調和のとれた関係だった。
均衡が崩れ始めたのはいつ頃からだったのだろうか。

卒業が迫っていた2月。
彼は卒業後、地方で就職することが決まっていた。
彼は研究職として大学に残ると信じ切っていた私は、彼がもうすぐ遠くに行ってしまうことに、少しセンチメンタルになっていた。
「2人で飲めるのもあと何回だろうね」と隣で瓶ビールをちびちび飲んでいる彼に聞いてみると、「いつでも東京に来るよ」と言った。
「なに、私のこと好きなの?」と酔った勢いでおどけて彼の顔を覗き込むと、彼は一瞬驚いた表情をして、それから一呼吸おいて、「好きだよ」と言った。

私はこの時どういう顔をしていただろうか。
少しの驚きと、どこか、ああやっぱりか、と思う気持ちと。完璧なはずだった調和を自分で壊した後悔と。

そして、一方で、ひどく高揚したのだった。
自分が絶対勝てないと思った人が、自分に向ける、期待と躊躇いが混ざり合ったような熱っぽい視線に。声色に。
とてつもない優越感を感じた。4年間を一緒に過ごして、初めて、彼に「勝った」と思った。

私は、しばらく沈黙して、高揚を押さえつつ、「ごめん」と答えた。
これまで、誓って彼を恋愛対象として見たことはなかった。優越感を感じたいなんていう自分本位な気持ちで彼を傷つけるべきではないと、私の理性が結論を出した。

しかし、彼は意外にも食い下がった。
卒業までの2か月間ほど、彼とは何度か飲みに出かけたが、彼は、その度に、しつこいほどに口説き文句を連ねた。
正直に言ってしまえば、彼が必死に小難しい言葉を並べて自分を口説き落とそうとしている様子を、のらりくらりとかわしながら眺めているのは、なんとも気分が良かった。親友に対してそんな感情を抱く自分を、人間のクズだとも思った。

結局のところ、我々の物語はよくある展開になった。彼が旅立つ、最後の夜だった。

「ずっと好きだったんだ」と彼は暗い部屋で天井を見つめながら言った。
「その割には、たくさんの子を好きになっていたと思うけど」と刺さるように返すと、彼は、「4年間ありがとう」と言った。
私は、泣いているのがばれないように、シーツの端で涙を拭った。
これは、まごうことなき友情だ、と確信した。
朝起きると彼はいなかった。


そんな彼から、先日久しぶりに連絡があった。
出張先から地方に帰るのに東京を経由するので、東京駅近くで少しお茶でもしないかというのである。当日の昼に連絡を寄越して会いに来いだなんて、良いご身分になったものだなと思いながら、一方で再開に心を躍らせて身支度をした。

1年弱ぶりに会った彼は、何も変わらなかった。
黒縁眼鏡に白いワイシャツ。哲学者のような手。
東京駅から徒歩数分のルノアールで1杯のコーヒーを頼んで、各々仕事の話、大学院の話をした。1年ほど前にあった諸々の話には、お互い一切触れなかった。お互いに今恋人がいるのかどうかも聞かなかった。
昔は、居酒屋か公園でお酒片手にくだけた雰囲気で話すばかりで、喫茶店で話なんてしなかった。小さなテーブル越しに畏まって向かい合うのは少しだけ違和感があった。

2時間ほど談笑して、あっさりと別れた。
別れ際、彼は「じゃあ、また来週」と冗談を言って、笑って見せた。
次の約束はしなかった。

帰りの中央線で、忘れていた色々な思い出が、ぽつりぽつりと思い出されてきた。
途中下車して、よく2人で行った吉祥寺の居酒屋に寄ろうとしたが、定休日だった。

大学に戻り、図書館で、彼の書いた卒論を書庫から出してもらった。同じゼミに所属していたので、彼が執筆に苦労している様子と、大まかな内容は知っていたが、完成版は見たことがなかった。
申請用紙の「著者」欄に彼の名前を書くとき、なぜか嬉しかった。
彼がそうするように、彼の名前の最後の「はらい」を思い切り力強く書いてみた。

読み進めながら、小難しい文体に懐かしくなり、少し笑みがこぼれ出た。
70頁ほどの大作を読み終えて、やはり彼には才能があると思った。私では届かない、なにか。

そして、図書館のデスクでノートPCを開き、この文章を書いている。


誓って恋愛感情ではない。
ただし、匹敵するくらい大事な友人。

彼が私のことなんか忘れて、勝手に幸せになっていればいいと思う。

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