見出し画像

憧れの三角おにぎりに思う、違っていいそれぞれのタイミング。

我が家の双子の娘たちが通う幼稚園には、月に1度、お弁当ではなく「おにぎり」を持って行く日がある。以前まで、私はこの日がとてつもなくプレッシャーだった。というのも、どうしてもおにぎりが三角に握れなかったから。三角に握ろうとしてもなぜか丸い形にしかならなかった。

私の「おにぎり」のイメージは、母がリズミカルに握るとあっという間にできあがる、きれいな三角のおにぎり。
出産前もおにぎりを握ったことはあったけれど、その時から丸くしか握れなかった。でも「自分もお母さんになることがあれば三角に握れるようになるんだろう」くらいに思っていた。

だけど「お母さん」になった私も、一向に三角おにぎりを握れるようにはならなかった。

子どもたちが離乳食時期を終えて握ったおにぎりが食べられるようになった頃、私は育児の「楽しさ」や「かわいさ」よりも、正直大変さの方が上回っていた。そして、そう思ってしまう自分は、著しく母性が欠けた人間なんだと自分で自分に呪いをかけていた。

そんな当時の私にとって、「おにぎりを三角に握れない」ということさえも、自分を責める理由のひとつになってしまっていたのだ。

振り返れば、おにぎりの型を使えばいいし、何なら丸いおにぎりだってコロンとしていてかわいいし、誰にも何も言われていないのに、と思うけれども、当時はそんな風には思えなかった。

子育て支援施設や街で見かけるママたちの子どもに向ける優しい笑顔を見る度に、私は目を背けたくなった。その瞬間しか見ていなかったのに、私は他のママたちと自分の違いを感じて苦しくなった。

そんなある日、ネットニュースにあがっていた記事を読んだ。
子育てについての記事で、ざっくり言うと「子どもをかわいいと思う時期は、それぞれ違ってよい」という内容だった。

それは、私の中で、目から鱗な考え方だった。

特に乳幼児期のうちは手放しでかわいがるべきという思い込みもあったし、周りの方からも「今が一番かわいいよ」と声をかけてもらうことも多くて、その時期を味わえないまま過ぎ去ってしまう怖さもあり、「気持ちがついていかないけど、かわいいと思わなければならない」と思ってしまっていた。

記事を読んだ時、涙が溢れたことを今でもよく覚えている。
それは、誰かにずっと言ってほしかった言葉をもらってほっとしたような、そんな感覚だった。

あの記事を読んでから3年ほど経った。双子は6歳になり、この春小学生になる。一人20キロ超えなのでもう双子のW抱っこはかなりきついし、言葉で言い負かされそうになる場面も増えてきた。でも、私は、今の双子がこれまでのどの時期よりも一番かわいい、と感じるのだ。

それは、子どもたちの成長もあるし、幼稚園に行くようになって24時間一緒の生活ではなくなったこともあると思う。そして何より、私自身が「理想のママ像を手放していいんだ」と自分に許可を出せたことも大きかったと思う。そして、いつしかおにぎりは、三角に握れるようになっていた。

「かわいい」と心から思える時期は、子どもの個性やそれぞれの成長の速度、そしてママパパのその時々の状況やそれぞれの感じ方で違ってくるのだと思う。

いつも何時も、ではなくても、それぞれの家庭の、子どもとママパパの歯車が噛み合う瞬間に「大好き」の気持ちを思いっきり伝えあえたらいいなと、今は思っている。

思えば私は、過去を振り返っても独自の昇華タイミングのようなものがあった。仕事でも、恋愛でも。周りのスピードといつも違う気がして、社会から外れているなあ…と思ったことは数知れず。
でも、そんな過去を振り返っても、私は”自分がちゃんと納得しているかどうか”がとても大事で、そう思えた時がやっぱり自分のタイミングなんだなとそんな風に思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?