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慮る。タイパで決めつける時代だからこそ

「慮る」という言葉がある。

読みは「おもんぱかる」。ぱぴぷぺぽ。
半濁音とは、なぜにこんなふうに愉快な響きを潜ませているのだろう。妙に気になってしまう。

goo辞書によると、意味はこうだ。

《「おもいはかる」の音変化。「おもんばかる」とも》周囲の状況などをよくよく考える。思いめぐらす。「相手の体面を—・る」

出典:goo辞書

まわりの人たちや目の前の人の状況について、みずから観察して、思いをめぐらせ、あらゆる可能性を考えてみる。事象に張られたレッテルなどは、あったとしても。いったんないものと仮定する。

自分の思考の末によって引き出した仮説をもとに、まわりの人たちや目の前の人に働きかける。

端的にいうと、先入観でモノを判断せず、状況に応じて思い遣ろう、ということだ。

これは前々から気になっていることなのだが、昨今の技術の進歩によって実に細かなことが明らかにされ、気質や脳の特性にまでもに名称がつけられている。

あたかも、そう診断された人が“異質なもの”であるかのように。

いや、診断されたほうが、アプローチしやすいという理屈も理解できる。

例えば、自分が忘れっぽいことに自覚があるとして、それが「ADHD(注意欠陥・多動性障害)」と診断されたならば、この症例に基づいた対策をとることができる。

しかし、その症例ばかりにとらわれてしまうのもいかがなものかと疑問に思ってしまうことがある。

なぜなら、その人そのものを見ていないからだ。

または、自分そのものを見ていないからだ。

ラベリングされた障害や気質を軸にして、その人を、自分自身を判断してしまう。

その姿勢には、目の前の人や自分を真ん中にして考えられていない。

「あの人はADHDだから…」
「うちの子は自閉気味だから…」

悩みに悩んだ末、お互いがしあわせに過ごすための前提で、相手を理解したいという願いをもって、世間の決めた枠にはめて接するのなら、それでいいと思う。

でも、知り合いでもない限りは、まっさらな状態で物事を見ることになる。

そこに「慮る」という姿勢が必要になってくる。

なにも明らかになっていなかった時代はどうだっただろう。

社会や世間に適合できない性質だからといって、今よりもっと差別され、軽蔑され、ひどい扱いもされていたことももちろんあるだろう。

一方で、お互いを思い遣って助け合いながら生きてきたコミュニティだって、絶対に存在してきたし、今でもあるはずなのだ。

環境や誰かを理解しようとするときに、タイパは障壁になる。

まずは、まっさらなその場を、その人を、時間をかけて、“慮る”。

肌触り、体温、声色、目の奥の輝き。すべてをリアルに感じながら。

おもんぱかる、ぱぴぷぺぽ、と心で唱えながら愉快な気持ちで知っていこう。

そんなふうに在りたい。

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