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『寂しい』が底なし沼になる前に

そりゃ、私だって『寂しい』時はあるんだけれども、私の場合『寂しい』のも許しているんだよ。

これは私が覗いたとある『底なし沼の寂しさ』という感覚の話。



溺れるような愛が渦巻く。
いや、愛する側が溺れているのかな。

「溺愛」は過ぎる。
どこまでも溺れていく。

そんなのに寄りかかるって、人間一人簡単にぽっきり折ってしまうほど重い。
けれど、アドバルーンのつもりなのだ。
それは虚像だとどこかで知っている。
でも、もうそれも忘れるほど遠く置き去りにしてしまった。
だから理由の見えない炎にだけ焼かれ続ける。

どんなに注ぎ込まれても、満たされない。

褒め言葉は嬉しい。
愛されていることも嬉しい。

なのに何処かで何か足りない。
けして戻らない、手に入れることのできない宝石が周りでチカチカと瞬くのを
『厭らしいものだ』
『そんなもの無くてもコレだけあるんだ』
と拒絶する。

許して、気がついてしまえば
足元から崩れるほど脆い。
認めてしまえば、自分の存在が軽くて重い事を思い知るから、本能的に避けている。


そういう魂だった。みえたのは。

これに関わるのは骨が折れるから、私はほっておきなさいと言う。
底なし沼なのだから。
関わるというなら、その沼に沈み続ける覚悟がなければならない。
それは魂そのものを縛られる事に近いから、そんなことは、そうそうしてはあげられない。
たとえ、その寂しさが怖いから、すこしデモ薄めてあげたくなっても。

『なんとかしてあげたい』

ってね、いいことなのよ。
その気持ちを持てるって優しいのよ。
でもね、自分の持ち上げられるぶんって決まってる。
磨いたり、鍛えたりするとソレは増えるけど、それでも限度ってあるのよ。

一緒に折れたり、沈み込むのは、得策とは思わない。溺れるのもね。
私は私が大切に思うものを、そういうので消耗させたくはない。
選ぶのは私ではないが、私は私の意思を選ぶのだ。

これは私の冷たさかもしれないけれど、まずは自分が楽しくて元気だって事が大切なのよ。

誰かを引っ張り上げようと思った時は、一度立ち止まるの。
あなた自身は怪我をしていないか、引っ張り上げられるだけの力があるか。
よく観察してからでも遅くはない。
そもそも、その時にパッと手が出せないならば、それはその時ではないことが大半だ。

その沼の主は本当に
引っ張り上げられることを良しと感じる準備
が出来ているか。

そういうのも大切。
無駄に溺れあわないために。 


一足飛びのように見える世界にも細やかな骨組みがある。
素早く構築して、使える人もいるけれど、大抵の事は時間がかかる。

流れるためにはその道があり、押し出すか下るかの力が働く必要があり、また、流れた先で留まる場所も必要で、書いていたらきりがないほど様々な物事が動いている。

それにミチミチに付き合うって大変とか通り越すよ。

怖い とか ゾッとしたり 

そういう瞬間的なものは大切にしてもいい。


『寂しい』
これね、いろんな色や形があるのだが
本当に、たまにだけど、どうにもならない時もあるよ。吹き溜まりはとくにね。

一瞬の濃さなら、駆け抜けて、その手を取って、駆け抜けてってしてもいいけどさ。

この辺の力のかけ具合が難しいよね。

怒りとか悲しみとかより、寂しさは粘度が高いから。



隠したりする前に、出すのよ。
埋め立てたりしないで。
大丈夫って割れやすい嘘を重ねないで
少しずつ。
底なし沼でなければ、きっと潜れるものもいる。
自分が気が付かない苦しさほど、縛られるものはないよ。
泥で他を汚してもいいのよ。
他は洗い流せばいいんだもの。
その様が悲しくても、それは寂しさとは少し違うのよ。


底なし沼になる前に、そうでありますように。
そして、その泥さえも恐れない魂が目の前にたくさんありますように。


たまに見えるもの。
私はそれを言葉に落として、発信する。
それが私というもの。 

そんなこと思ったのでした。
 




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