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要約 『くらしのアナキズム』 松村圭一郎

全体要約

 アナキズムとは本質的に、特殊でもなく、攻撃的な思想でもない。歴史的に見れば「支配権力から逃れた状態」を指向する想いは、むしろ人類にとってのデフォルトだ。そしてその思いが国家転覆や革命につながることは稀なケースであり、それをアナキズムの全体と考えるのは誤っている。

 21 世紀にあってアナキズムとは、国家や権力に頼らず、民主的に生活しようとする意思である。自分たちで「公共」を作り、守ろうとする自立の志である。それは普段の生活に根差して実現されるものであり、その点において、「くらし」と「アナキズム」は強く紐づく

 様々なことが専門化された現代において、自分の周りの問題や困難なことは、権力や能力を持つ誰かに任せてしまいたくなる。けれどもそれらの問題は他の誰でもない自分の目の前にあるのであり、生活者である自分たち自身で向き合うべきだと自覚することから始めよう。自らの内にある言葉で整理し、他者の意見に耳を傾けて対話しよう。そうして問題と向き合い、一緒に解法を模索してくれる仲間を見つけ、彼らとの関係の場を耕すことが、くらしのアナキズムの第一歩だ。

第 1 章: 人類学とアナキズム

 アナキズムとは「無政府主義」と訳される。その響きに危機を感じるのは、私たちが無政府という未知の状態に対して恐れを抱いているからだ。しかし人類学者のデヴィット・グレーバーは、実際に無政府状態を体験し、政府や国家が存在しない状態でも人々は自分たちの秩序を作り、維持できることを観測した。国家が存在しなくとも、カオスは到来しない

 トマス・ホッブズは著書「リヴァイアサン」の中で、人間は互いに他者より優位に立とうとするのであり、自然状態では常に戦争状態になると説いた。これが私たちが想像するカオス到来のイメージだろう。しかしマルセル・モースは「贈与論」の中で、ホッブズが指摘するような「万人による闘争状態」を否定する現実を述べている。それは様々な地域社会において成立している贈与文化に関するレポートであり、「贈り物の交換、というルールを通して倫理・規範が成立しており、支配権力無しに秩序の維持、義務の履行が成立する実例」を述べた。人が社会を、共同生活を成すに当たって必要なものは、人が無意識に理解している。それは「市民意識」であり、誰かに喚起・強制されずとも人が発揮し得る能力であると、モースは指摘する。

 そもそも国は起源的に言えば、人に利をもたらすシステムというよりは、人から利を効率的に収奪するためのシステムであった。そこから逃げ出した人々が多くいることを私たちは知っており、時として彼らを野蛮人と呼ぶ。しかし彼らを観察してみると、彼らが逃げ出した先で、どの国でも成し遂げられていない完全な社会主義を成立させていることなどもあることに気づく。そこに国家の、権力の介入が無かったことは書くまでもない。

第 2 章: 生活者のアナキズム

 フランスのミシェル・フーコーは「権力は、あらゆる関係に内在する」と述べた。つまり権力とは、必ずしも国家や支配層から押し付けられるものではなく、私と隣人の間にでも発生するものだと言える。そこを履き違えなければ、アナキズムは単に国家や政府の否定にとどまらず、あらゆる権力的なものと向き合うための視座に変わる

 阪神淡路大震災では、倒壊した建物から救出された人の八割は、救急隊員や消防隊員ではなく市民の手によって救い出されたという。国家や権力の力を当てにせず、自分が何をやるべきか、どうやって助け合うかを考え行動した彼らのあり方は、アナキズムのそれとなんら乖離するものではない。

第 3 章: 「国家なき社会」の政治リーダー

 どの世界でもリーダーは権威も威厳も持っている、という考えは間違いだ。フランスのレヴィ・ストロースは「悲しき熱帯」の中で、アマゾンに暮らす先住民の首長について書いている。驚くべきことに彼らは、指示系統を司り、近隣との外交交渉すら行う紛れもない集団の首長であるにも関わらず、その集団内ではなんらの権限も権威も持っていないという。同様のリーダーの在り方は、世界の各所で見受けられる。彼らの共同体におけるリーダーとは、自分の利益のために動くものではなく、純粋に共同体に奉仕する責務を負った存在であるのだ。

 上述にようなリーダーの在り方は、私たちが未開社会と呼ぶ地域に多い。では未開ではない、開かれた文明でのリーダーの在り方はどうかというと、語るまでもなく、いずれのリーダーであっても何かしらの権力を持つことが一般的だ。
 では両者を比較した時、必ずしも文明社会は未開社会に優っていると言えるだろうか。フランスの人類学者ピエール・クラストルは、「未開社会が国家を持たずに今のあり方を維持するのは、意図的にそうしたものである。国家の有り様を導入することによってもたらされる権力の流入を拒絶したのである」と述べる。

 とすれば、国家の権力の下で国家に頼らないあり方を模索する私たち文明社会と、権力の介入なしに共同体を成立させている未開社会と、果たして「民主的」なのはいずれであろうか? この視点に立つ時、もはや彼らを「未開」社会とは呼ぶことはできない。文明社会がたどり着いたと幻想し、しかし手に入れることのできていない民主主義を、彼らは「国家を持たない」という選択によってとっくに取得していたのだから。

第 4 章: 市場のアナキズム

 日本の思想家である鶴見俊輔はアナキズムを「権力による強制なしに人間が互いに助け合って生きてゆくことを理想とする思想」と定義づけた。つまりは、自由と平等を指向する強い想いである。しかし何の制約もなしに自由や平等は実現できない

 中世ヨーロッパにおける市場 ( マーケット ) は、初期の状態にあっては自由と平等を体現するような場所であった。そこには絶え間なく活気が溢れ、物が満ち、貴賤を問わずに売買が行われる非日常の空間であった。その空間から自由と平等が失われたのは、資本家の参入によってであった。初期の市場は個人対個人での自主的なやり取りが行われていたのに対し、資本家はそこに「大量の買い占め」や「商品の独占」といった論理を持ち込んだ。果てには国家と結託し、市場は資本家にとって都合の良い空間に塗り替えられていった。もはやそこに個人が入り込む余地は残されていなかった。

 市場であっても都市であっても、そこに存在する自由や平等が無条件で存在し続けるわけではない。自由や平等の存在する、つまりアナキズム的空間を維持するためには、意識的に権力から距離を取らなければならないということを私たちは歴史に学ぶことができる。さらに言うならば、権力を指向する力が内部から生じることについても警戒しなければいけないのだ。

第 5 章: アナキストの民主主義論

 アナキズムとは破壊的な思想でもなければ、あらゆる政治を否定する主張でもない。それは権力の強制なしに互助的に生活を行うことを求める想いであり、それは民主的な政治が行われる社会を指向する思想だとも換言できるだろう。

 私たちは民主主義の代表的な方法として多数決を思い浮かべるが、グレーバーに言わせれば、多数決は民主主義的な方法ではない。採決を取ると言うことはある種の勝負であり、必ず誰かが勝ち、必ず誰かが負ける仕組みである。そこに生まれる屈辱や禍根は、互助的な精神を刈り取るのに十分なものだろう

 グレーバーが提唱するのは、国家を持たない社会の民主的な政治の成立である。それは、誰もが自分の意見を無視されたと感じないようなコンセンサスに基づく政治だ。
 例えば日本では何か他者との間に起きた問題を解決する際には、自然と警察や裁判などの専門権力に協力を仰ぐことを発想してしまうが、世界的に見れば同種の問題に対して、当事者間のコンセンサスに基づいて解決を図ろうとするスタイルはそう珍しいものではない。わかりやすい例を挙げるのならば「年長者」だ。彼らは往々にして特権的な権力を持っているわけではなく、ただ当事者の間に入り、説得し、時に妥協を促し、相互の同意に基づく解決の道を模索する。このような「身の回りの問題を自分たちで解決する」ことこそ、アナキズムの本質と言っていい。

 こういった「話し合いによる同意」を目指すやり方は、ただ時間だけがかかる古臭いやり方だと思われている。しかしこの「時間がかかる」という点の価値は見直されるべきだ。時間をかけて話し合って築いた関係は、その後にともに過ごす時間における関係の素地になる。その素地こそ、アナキズムが目指す、民主的な互助関係において必要とされるものなのだ。

第 6 章: 自立と共生のメソッド

 ここまで見てきたことから、アナキズムが目指す民主的な「公共」の場とは、自然発生するものでもなく、破壊的な行為の先にあるのでもなく、意識的に行われるコミュニケーションの先にあると言えるだろう。

 フランシス・ニャムンジョは「コンヴィヴァリティ (共生的実践)」と言う概念を提唱する。それは一言で説明できる観念ではないが、不完全な存在同士が相互に依存し、交渉するにあたって発生する、寛容や包摂、協調などの他者とのバランスをとるための様々な葛藤を包括しつつ、共生を目指す意思、とでも言えるだろうか。その世界観は人間が不完全なものであるという点から出発する。従って完全性は希求しないし、差異のある他者を肯定的に受け入れる素地が用意されている。「コンヴィヴィアルなアナキズム」。それは私たちが目指す世界を言語化するものだ。そしてそれは、市場であっても、家庭であっても、あらゆる場所で発現させられるものだということはとても重要なことだ。

 私たちの身の回りには国家が、権力が、空気のように存在している。くらしのアナキズムとはそれを攻撃したり排除したりするものではなく、それらに盲目的に従属するのでもなく、自分で考え、他者と協力して、よりよく生きようとする姿勢である。大きなシステムは、私たちを一つの部品として自らの内部に取り込もうとする。私たちはそれに違和を感じ、立ち止まり、自らの考えに従って行動する。私たちの中には、それを成すための力が眠っているのだ。

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