リリのスープ 第三章 深呼吸する風

家を出るとき、婦人は、ちょっとだけどと言って、干した野菜と、フルーツと、パンを持たせてくれた。
朝、キセルのおじいさんはいなかった。婦人だけが家にいるようだった。
もしかして、おじいさんや家族の人はもう畑にでもいっているのだろうかと、ナディンは思った。
リリも婦人にゆっくりお礼をいうと、助手席に乗り、ナディンは車を走らせた。
天気がよく、青空だった。
出発を早めたおかげで、道はそれほど混んでおらず、また山道に向かった。
昨日の山よりも、それほど険しくなかった。緩いといっても、地元にある山よりは、ずっと高かった。
窓を開けながら、山林を走っていると、虫も飛んできたりした。
気持ちよい春の風に、二人とも、黙ったままだった。

途中、山の頂点付近で、車を降りて、景色を眺めながらパンを食べた。
山から見下ろす景色は、いままでみたことないものだった。
すでに、住んでいた町は見えなくなっていた。
山の向こうの裾から、国道を挟んだ先に広がっていることだろう。
穏やかでのんびりした田舎町が。
自分たちと同じ朝を向かえ、町が活動し始めている頃だろう。
ナディンは、地元の町が見えなくなると、ずいぶんと遠くまできたなと感じた。
見慣れていたものが見えなくなると寂しさが湧くというよりも、日常を締めていた呪縛のようなものから、一切解放され、新しく出会うものすべてを受け入れられる容量が、心に生まれているのだった。

リリは、深呼吸していた。
昨日の昼から、彼女は毎日一緒にいた子供たちと会っていない。
もうすぐ丸一日となる。
身体が、子供たちを記憶しているようで、肌のふれあいや接触がないことが、なんだか落ち着かない気分にさせた。
毎日一緒にいた子供たち。今の時間は何をしているのだろうかと、考えている自分に驚いたりした。
丸一日、子供たちと触れ合わないだけで、まるで、身体が夜泣きでもしているようだった。乳を離すと、口寂しくて、指をくわえる子供と同じような気分だった。
それを埋めるかのように、旅では新しく出会いを見つけようと思った。
そう思わないと、リリは、心にふと湧いた寂しさが、身体中をめぐってしまいそうだったからだ。

また、しばらくして、車を走らせた。
山林は下りにさしかかり、これを降りきったところには、海のある町があるはずだった。
空高く茂る木々の間をぬけて、道を走っていった。
車は、軽快なスピードで進んでいった。
見渡していた山林の間から、少しずつちらほらと家が見えるようになってきていた。
町が近いことを示している。

山林を抜けて、家々が並び空が見渡せる見晴らしのいい場所までくると、海の方向はすぐにわかった。
空が、海へと続いている青が見えた。
リリは、その空をじっとみつめて、ワクワクでいてもたってもいられないというような表情をしていた。
ナディン自身も、海をみたのは、もうずいぶん前だった。
学生の頃と、その後、勤めだした頃に行ったきり。
リリもナディンと同じ町で学生として出会い、その後、仕事をし結婚してからもずっと同じ町に住んでいた。
海のない町だったので、ナディンと一緒にいった学生の頃と、その後、結婚してから子供たちをつれてデイと行ったきりだ。
またしても、デイや子供たちのことを思い出している自分が、おかしく思えてきていた。

「まったく、これじゃ運命の人が、隣を歩いていてもわかりゃしないじゃない」

と心の中でぼやくと、自分に喝を入れた。
車の窓から入ってくる風が、山林とは違った香りがしていた。
しばらくして、それが、磯の香りだということに気づいた。
海に慣れていない自分たちにとっては、磯の香りというものも、なじみがない。
山間の木々に囲まれる生活には慣れているけれど、海という、より大きなものは、馴染みのない自分たちにも不思議な魅力を見せてくれる場所であった。

街並みを抜けて、港へと続いている防波堤までやってくると、ナディンは車を止めた。
リリは、すぐにドアをあけて外に出て、歓喜の声を上げた。


「蒼いわ!風も波も。すべて。この世界の泉だわ!」

大きな声で、叫び

「まるで地球の鼓動に呼応している、母親のようだわ」

とも、言った。
隣にいるナディンも、リリの言っていることがよくわかった。
彼女ほど、ロマンチストに形容できないにしても、その感動する様がよく伝わってきていた。
自分にもそういう才能があったなら、うまく伝えられるだろうに。
ナディンは、リリの形容を海風と一緒に飲み込み、喉から落ちてゆく歓喜を味わった。

防波堤の白いペンキと、抜けるような空の青と、波の間から見える蒼。
空を見上げると、太陽が、まぶしく光で見えなくなってしまう。
吸い込む風は、潮の風。
初春の陽気に、薄い袖の生地から差し込んでくる陽のあたたかさ。
リリの中で、新しいことが始まる予感を感じるには、十分すぎるようだった。


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