note編集部のおすすめに載る記事は本当に良い記事なのか?


note編集部のおすすめ。

恐らく、このおすすめに選ばれることを『登竜門』のひとつ、もしくは一定の評価を得るまでの関門として、密かに目標として掲げている人も多いのではないでしょうか。


私もこのnote編集部のおすすめに選ばれたいと心のどこかでずっと思っていました。

そう、「思っていました」となっている通り、いまはもう過去形になっています。


なぜかというと、いまのnoteのおすすめに選ばれることに価値を感じなくなったからです。


おすすめのクオリティがギャンブルすぎる料理店も同然


まだ始めて半年の弱小noterが言葉を選ばずに言って申し訳ないのですが、編集部のおすすめに並んでいる記事の数々に目を通していると、首を傾げることのほうが断然多いのが現状です。(おすすめをきっかけに知って追いかけ始めたnoterさんも片手で数えられるぐらいにはいるのですが)


言葉選びの相性ゆえか、スクロールだけが進んでブラウザバックするだけの、まったく頭に入ってこない記事。

「え? 終わり??!」と拍子抜けするほど読後感のない記事。

ドヤ顔が見えてきそうな、難しい言葉と専門用語に溢れた理屈っぽい記事。

雰囲気だけでなく言葉までふわふわしすぎていて、読むのもしんどくなるエッセイ。

肩書きにものを言わせたような、内容はごくごく当たり前のことしか書かれていない記事。


ごめんなさい。謎チョイスの多さに、『おすすめ』の意味がよくわからなくなっているのですが。


「これはなにをもって"おすすめ"なの?」


おすすめとして大々的に載せるからには、この問いに対する答えが欲しいところです。


現状、私の目から見て「これがなんでおすすめに選ばれたの」って思う記事が多すぎて、公式のおすすめなのに一番見ないというよくわからない状態になっています。まさか、なにか裏がある、なんてことはないですよね . . . 


本日(今週)のおすすめってメニューに書かれていて、いざ頼んでみたら苦手な料理とか口に合わない料理ばかり出されているようなものです。

「本当においしいものはたまにしか出ないのに、おすすめとは? おすすめというからにはある程度味が保証されて然るべきではなくて?」と考えこんでしまいます。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という言葉のようにギャンブル要素が強すぎると感じるのが、今回の話題であるnoteのおすすめです。


noteの雰囲気にそぐう=大衆受けを狙っていることになる?


もちろん、おすすめにも人それぞれの基準はあると思います。


そこには、単に『良い記事である』以外にも、『記事の書き方がnoteの雰囲気にそぐうものであるかどうか』『情報が"有益"であるか(もしくは一読に値すると判断した)』などの判断基準があるんだろうなとは思います。


noteの雰囲気にそぐうものという部分は、『仕事論』『ノウハウ』『業務関連の説明』のようなお堅い書き方がされているビジネス関連の記事、小説のような淡々とした文章、またはやわらかい口調で書かれているエッセイが思い浮かびます。同じnoteというプラットフォームでも、カテゴリーによって文章もガラッと顔を変える。それがこのnoteの面白いところでもあります。


でも結局なにが言いたいのかよくわからないまま記事を閉じることも多くて、一体この記事になにを見ておすすめしてるのかなぁと感じることも少なくありません。


また、考え方を変えると、「noteの雰囲気にそぐうということはつまり、他のおすすめと似たり寄ったりの雰囲気にならない?」とも思います。「おすすめに選ばれた他のnoterさんたちと同じようなトーンで書かれてますね。うちの雰囲気に合っている。+5点。」みたいに思われているんでしょうか。そう考えると、なんか嫌な気もします。その日の気分によっては、「私は私です。一緒にしないでください。」と思ってしまいそうで。


そこで私はふと思いました。おすすめに選ばれないことにもまた、『自分らしさが失われていない』という、ひとつの価値があるのではないかと。


『編集部のおすすめ』という言い方が原因で、すごそうに見えるだけ?


それに、note編集部と聞くとすごそうに聞こえますが、中の人たちの実力がそもそも未知数です。

noteというプラットフォームの運営に携わっている点においては、(お金をいただいているという意味での)プロかもしれませんが、同時に文章のプロでもあるとは限りません。

極端な話、文章のプロどころか、実は新人が選んでいる可能性もありますし、結局、中の人たちそれぞれの得意分野とか好みに合う記事を個人の判断で選んでいる可能性だってあります。現に、専門外の人にとっては意味不明で終わるような専門的過ぎる話がおすすめに選ばれているところを見ると、少なからずその傾向はあるように感じます。あとは、肩書きとか数字に媚びてない?って思う時も若干。


そこを『note編集部』とか『編集部のおすすめ』という名前が、あたかも文章のプロ全員で協議して満場一致で選ばれたかのような、すごそうなイメージを与えてしまっている。それが「おすすめに選ばれること」に執着する人だったり、評価に一喜一憂したり、承認欲求を暴走させる人を続出させているのではないかという気がしています。単なる憶測ではありますが。


『おすすめに選ばれない』こともまた、あなたらしさの証明


こういった疑問の数々から、いまのnote編集部のおすすめに選ばれることに私は価値を感じなくなりました。もちろん、選ばれたらそれはそれでひとつの価値となるのでしょうけど、一度承認欲求が刺激されるとさらに渇望するのが人間の性(さが)というものです。


競争に勝てば、わずかの間だけ渇きは癒されるかもしれない。でも、癒されたいからという欲で癒した渇きは、またすぐ次の癒しを求め始めます。誰かを蹴落としても、勝ってなお渇くばかりです。こうした承認欲求にはどこかで決着をつけなければ、今度はnoteだけでは飽き足らず、「Twitterのnote公式アカウントで紹介されたい!」とか「Twitterでバズりたい!」などと言い出し始めるでしょう。


『足るを知る』ことができない限り、欲に振り回され続けることになります。実際、界隈で名の知られた人であっても、欲に振り回されているなぁと見ていて感じる人もいます。その一方で、まだ広く知られていないような人であっても、足るを知って、その人自身の軸をブレずに持ち続けている人もいます。

選ばれようと必死になって、評価を受けるたびに変に欲を刺激されて振り回され続けるのか。選ばれることなど期待せずに、自分自身の赴くままに続けて、気が付いたらそこにあった、という状態になるのか。どちらが本当の幸せなんでしょうね。


少なくとも、名前を示すだけの魅力をあまり感じないような場所に別に選ばれなくてもいいかなと、いまの私は思っています。『閲覧履歴にもとづくおすすめ』や『おすすめのユーザー』に対しての件といい、noteのおすすめへの不満が噴出していてすみません。


でも、最後にnoteの運営側の肩を持つと、ユーザーがものすごく増えたこのプラットフォームで、たくさんの記事にしっかり目を通して光る記事を見つけるのは簡単なことではありません。ユーザーの増加に伴って、noteが始まった当初と違う方法を取らざるを得ないのも重々承知しています。


ですが、『おすすめ』は結局のところ、ひとつの観点から見た『おすすめ』でしかありません。いくら誰かにとっての自信作だったとしても、別の誰かにとってはどうしても口に合わないものになる。私のこの記事も然りです。

過ごしてきた環境、価値観、文章の感性などによって受け取り方も変わってきます。私たちの人生において、抜群に波長の合う人もいれば、生理的に合わない人もいるように。


だから、選ばれなかったからといって気に病む必要もないのかなと思うわけです。むしろ、「私の文章の良さがわからないって? もったいなーい」と、どっしり構えるぐらいでいいのではないでしょうか。


「あー、編集部のおすすめ? 別にいいよあんなの。もうどうでもいい。」と割り切って自由に取り組んでいる時のほうが、いわゆる『物欲センサー効果』で、意外とあっさり取り上げられることだってあるかもしれません。


物欲センサー効果
「〇〇が欲しい!」と思っている時ほど的外れなものばかり手に入る、あまのじゃくな現象のこと。また、その逆で、まったく考えていない時ほどあっさり手に入ってしまう現象のこと。


『本当に良い出会いのコツは、そもそも出会おうとしないこと』と言われるように、『おすすめに選ばれようとは考えずに、その時の自分自身が思うように書いていく。そしてそれを続けていく』のが、急がば回れで結果的に近道になるのかも。知らんけど。


ということで、『おすすめに選ばれない勇気』のススメを提唱して終わりたいと思います。

大丈夫。おすすめに選ばれないこともまた、あなたがあなたらしくいられているという、ひとつの証明なんですから。

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