人もペンギンも

強風が横から吹き付け、銀色の車体を大きく揺らしました。窓の外を覗こうにも背後の窓の向こうに広がるのは暗い闇。その向こう側に目を凝らそうとしても、叩きつけるような雨の影に視界は遮られるばかりで、外の様子を窺い知る手段は絶たれております。
気詰まりな沈黙が湿度の高い車内を底から満たしている一方で、頭上に吊るされた広告の中ではモデルが「全身脱毛今なら月額9800円」などと微笑みながら真っ白な蛍光灯によって照らされているのでした。

「もう緊急停止してから10分近く経つんじゃない」
私は目の前に立つ佐々木を見上げ、そう口を開きました。
「今Twitterで調べたら、どうやらこの台風の影響で架線に何かが引っかかったらしい」
佐々木はスマートフォンを繰る手をとめて私を見ました。
「こんな日に水族館ではしゃいでいたなんて、私達も能天気だったね」
肩をすくめた私に佐々木は「俺が誘ったんだし」と言いながら口の端で微笑みました。
その口元を見上げながら私は顔を座席の脇の壁にもたせかけます。先程の水族館で見上げたペンギンたちの姿が眼裏に浮かびます。彼らはこの嵐の中で身を寄せ合って立ち尽くしているのでしょうか。

中学の同級生だった佐々木と水族館に行くことになったのは、地元の駅で数年ぶりに再会したことがきっかけでした。
駅のホームで声をかけてきた佐々木は「高校生の頃も何度か見かけていたんだけど、ようやく話しかける勇気が湧いたんだ」と微笑みました。
久しぶりの佐々木の風貌は、中学の頃よりも幾分背が伸びていて、明るい色の髪の毛は毛先が少し傷んではいましたが、それが朝の日差しの中できらきらと輝いていたのです。はにかむ彼の笑顔に懐かしさを感じ、大学の試験期間が終わった後に水族館へ行くことにしたのでした。

水族館は高層ビルの上階にありました。ひと通り見て回った後に階下に降りる道すがら「夕飯何が食べたい」と尋ねてきた佐々木は、
私の「回転寿司」という言葉に「なんだそれ」と爆笑しながらもレストラン街の回転寿司まで導きました。
人気のない店内を寿司が回遊していく中、私はペンギンの腹を思い出していました。
その水族館の屋外エリアには、頭上を覆うように水槽が広がっており、まるでビル群の間をペンギンが飛び交っているように感じられる演出が施されていたのです。
彼らは曇天に隙間を作り斬り込んでいくようにすいすいと飛び回っておりました。間近で見ると彼らの毛は空気を含みきらきら光るのです。
きっと彼らがここまで降りてきたら、回転レーンの上のお寿司は全て食い尽くされてしまうことでしょう。
私はそのようなこともなく恙無く食事を終えられたことに感慨を覚えながら「ごちそうさまでした」と手を合わせました。
すると佐々木は「どういたしまして」と返すのです。
「なにが」
「え、おごってあげよう」
「どうして佐々木におごられないといけないのよ。私は食事とこの時間に対して挨拶をしただけで、あなたにおごられるつもりなんて無いわ」
会計を済ませると、私は先程までの空想が急速に遠ざかっていくのを少し名残惜しく思いながら、押し黙ってエスカレーターに乗りました。目の前には佐々木の頭がありました。この毛はきっと、水の中では海藻のようにまとわりついて邪魔になるのでしょう。私は黒いワンピースの胸元のリボンを見下ろしそっとため息をつきました。きっとこのシフォン素材も、水中では重たくなるのでしょう。

隙間風が強まってきました。一向に動かない車内のところどころで、舌打ちや擦過音が聞こえてきます。
頭上から風音と生暖かい風を感じたのはその時でした。
身を起こし上を見上げると、座席の壁の向こう側からこちらを覗き込む見知らぬ男の顔が見えました。
男の風貌は四十路手前ほど、理容室で切ってから暫く経ったであろう髪の毛は、灼熱の太陽によって地面にひれ伏す草木のように額に力なく垂れております。
ネクタイを外したワイシャツの隙間から下に着ているタンクトップの首元が覗いており、そのワイシャツの腕まくりした先に伸びる白い腕を覆うように体毛が生えていて、それが頭上の壁の切れ目にどんと置かれているのです。
車内にいるほかの会社員であろう男性と似たり寄ったりの風貌は、駅に降りて数歩も歩けばたちまち忘れてしまうほどに特徴の無いものでした。
男は壁の上部から私の方に身を乗り出すようにして私を見下ろし続けます。
今日の私の服装は、胸元が大きく開いておりました。思わず私は膝の上に載せていた佐々木のリュックを掻き抱き、胸元を隠すように俯きます。
手に持ったスマートフォンが鈍い音を立て震えました。そっと覗くと佐々木からのメッセージが表示されました。
「となりのオヤジやばくね?」
私は画面がオヤジから見えないように傾けながら素早く返事を打ちました。
「怖い。痴漢じゃないから声を上げることもできないし」
佐々木のスマートフォンが振動する音を感じ、私達は目配せを交わしました。
するとたちまち頭上から大袈裟な溜息が聞こえました。
オヤジはもう私を見てはいませんでした。代わりに佐々木を舐めるように睨みつけ始めたのです。

車内のスピーカーから「障害物を撤去しているところです」というアナウンスが入りました。アナウンスの背後には無線による指示が流れております。佐々木は猫背を一層丸め、窮屈な車内で懸命にオヤジから遠ざかろうとしていました。
耳元で、雨粒が叩きつけられる音がしました。暗い闇の中、いくつもの白い車体が息を潜めるように身を伏せていて、その向こう側で走り回る人の存在を感じた時、私の感じたものは憤りでも勇気でもありませんでした。

「あの、お具合悪いのでしたら、お席譲りましょうか」
重たいリュックを持ち上げて不意に立ったので、私は僅かによろめきました。勢いよく立った私の額に吊革が打ち付けられたのを感じましたが、私は努めてにこやかにオヤジに向かい合う姿勢を崩しませんでした。
姿勢を正しヒールを履いた私は佐々木よりも背が高いことを感じました。
不意を突かれたオヤジは、私を見上げると髪を掻き分け目を丸くしました。
車内の目線がこちらに集まっているのが感じられます。
「お疲れでしょうし、よろしければ」
私がそう小首を傾げると、その男性は姿勢を立て直して
「ありがとうございます、すみません。でも大丈夫です」
掠れる声でそう言いました。
「本当ですか。もし具合悪くなったら、遠慮なく言ってくださいね」
座り直しながらそう言うと、男性はぎこちなく微笑みました。

アナウンスがまもなくの運転再開を告げました。随分と長い時間が過ぎたように思いましたが、止まっていた時間は20分ほどでした。
電光掲示板を見上げると、視界の隅に先程の男性の顔が見えました。少し口元が緩められたその顔は、先程のものとは全く違う印象を私に与えました。
佐々木がこちらを見ているのが感じられます。私は、彼に対する興味が急速に失われていくのを感じておりました。
ペンギンは交わす言葉もなくただこの嵐の中で体温を交換しながら生きているのでしょうか。私も風を切るように飛んでいきたいと感じました。

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