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映画『ブルーを笑えるその日まで』を観て

こんにちは。すなみん(@sunami2008)です。
好きな漫画は松本大洋の『ピンポン』、オールタイムベストムービーは黒澤明『生きる』と『スタンド・バイ・ミー』です。

先日、『ブルーを笑えるその日まで』という映画を観てきました。
というか計6回観ました計8回観ました。
2023年の12月8日から続いたアップリンク吉祥寺での上映、最終日の2024年2月3日にまた観に行ったので、追記・修正。

あらすじ
安藤絢子(アン)はひとりぼっちの女の子。唯一の居場所は薄暗い立ち入り禁止の階段。不思議な商店で、魔法の万華鏡を貰ったアンは、同じ万華鏡を持った生徒、佐田愛菜(アイナ)と出会う。二人はすぐに仲良くなり夢のような夏休みを送るのだが、屋上には昔飛び降り自殺した生徒の幽霊が出るという噂があり…アイナはその幽霊なのではないかという疑念を抱きながらも、お互いにとってかけがえのない存在になっていく二人。そんな楽しかった夏休みも終わりに差し掛かるのだった―。

とても良い映画だったので、キャラクターを軸にして感想と考察など書いていきます。
学校嫌いだったなとか、会社に馴染めないなとか、そういう人には一層刺さる映画と思います!
ぜひ観てみてください!


パンフレット・グッズなど

プロローグ

前提として、私は、漫画・アニメ・映画・演劇などが好きなサブカル人間です。
そして、高校のとき友達がひとりもいませんでした(今も友達はいないんですが)。

ここ3年くらい、めちゃくちゃ仕事や仕事関連の勉強などしていて、サブカルからは遠ざかっていたのですが、9月頃から再燃し、ミニシアターにふらふら行っていました。東京国際映画祭なんかにも行ったり。
サブカル好きであることを再認識した話↓

あー、やっぱり自分は日本のインディーズ映画好きだなーと思い、映画祭コンペティション『TAMA NEW WAVE』のオンライン審査員をやることにしました(リアルコンペ当日はゆかりんのファンクラブイベントがあったため、オンライン審査)。
TAMA NEW WAVEは「ウルフなシッシー」の大野大輔監督を輩出した、若手の登竜門的なコンペティションです。

TAMA CINEMA FORUMの支援会員にもなっています

そこで初めてこの映画を観たんですが、これは良いと思いました。
ぶっちぎりでこれだろ、と投票。
「石とシャーデンフロイデ」や堀内監督の「お祭りの日」もよかったですけどね。良い映画だった。
2票目はグランプリ受賞の「石とシャーデンフロイデ」に入れましたが、私が、友達がいないとかサブカルだとかロックが好きとかそういう属性・趣味嗜好を割り引いても、ぶっちぎりでブルーを笑えるその日までだと思い。
製作者も命懸けで作品創っていると思いますが、審査員も命懸けで審査してます。少なくとも私は。
全ては日本映画の灯火を絶やさぬため
なんちゃって。

学校に馴染めず、ひとりぼっちの中学生アン。 別室登校のアイナと出会い、かけがえのない友達になっていく。
中学校特有の息苦しさ、閉塞感をリアリティをもって描き、脚本に力があって魂のこもった映画でした
武田かりん監督の実体験、不登校と自殺未遂をベースに創られたとのこと。

ファンタジー要素もあるんですが、自然な形で導入されていました。
物語がどうなっていくのか、アイナは誰なのか、映画を観せ続けるストーリーもある。
ディティ-ルにもこだわっていて、商店、クマのマスコットキーホルダー、万華鏡、金魚、銀河鉄道の夜の使い方など、細部も上手。
登場人物の寄りも多いんですが、引きの画も綺麗なんですよね。
青空が多いし。

何を撮りたかったのか、何を訴えたかったのか、伝わってくる熱がある。
素晴らしい。こういう丁寧に創られていて熱い映画、好きなんですよね。

そんなわけで、インディーズ邦画おしゃれイベント(と私は思っている)、MOOSIC LAB 2024で1回、その後アップリンク吉祥寺で6回観ました。

普段同じ作品を繰り返し見たりしないんですけどね。それほど胸に響くものがあったので。

以下、キャラクターを軸にして考察とか好きなシーンとか書こうと思います。
ここから先は、ちょっとネタバレかも。
まだ観てない人はもうちょっと待っててね。

アンとアイナ

アンは、この物語の主人公で、ひとりぼっちの中学生。
学校に馴染めず、家にも居場所のない女の子。
アンを演じた渡邉心結さんは、TAMA NEW WAVEでベスト女優賞を受賞
私も審査員として票を入れました。
ひとりでいるときの退屈そうな顔、悲しそうな顔と、アイナと遊んでいるときの楽しげな表情のギャップとか上手だなぁと。

ひとりぼっちのアンは、町の商店のオババから魔法の万華鏡をもらう。
その後アンは、屋上の前の階段でひとりお弁当を食べていたところ、魔法の万華鏡を覗き込み、呪文を唱える。
きらきら、くるくる。

そして、別室登校のアイナと出会う。
学校には、昔9月1日に屋上から飛び降りた女子生徒の幽霊が出るとの噂もあり、アイナはファンタジーっぽく透明感がある存在。
アイナも魔法の万華鏡を持っている。

仲良くなってふたりで遊んでいるところをぼーっと観ているだけでも、心が洗われますね。
学校と違って、図書館はオアシス
夏休みの間、ふたりは図書館に通うのですが、私も学校は大嫌いだけど図書館は好きだったな。
あの頃、つまらない学校が終わって図書館に行くのが楽しみというか、生活の支えだった。
大学受験の勉強したり、本を読んだり。
この映画と同じく永遠の友情を描いた物語で、私の愛読書でもある『星の王子さま』に出会ったのも高校生のとき、図書館だったな。

アイナも友達がいなくて、ひとりぼっちで。
アンと出会えて本当にうれしそうなんですよね。

アンは元々、ユリナと仲が良くて、でも中学に入ってからはナツミやナオが入ってきて関係が変わってしまって、ユリナにも教室では無視されてしまう。
4人の友情の証としてクマのマスコットキーホルダーをお揃いでバッグに付けていたけど、アンだけマスコットを失くしてしまい、だから私は無視されているのだと。

それに対してアイナは、「そんなことで友達じゃなくなるの?」と。
アンのマスコットは見つかるのだが、アイナはもうそんなの捨てちゃいなよ、と川に投げ捨ててしまう。
このシーン、最初に観たときは、もうそんな偽りの友情なんかに縛られるのはやめなよということだと思ったのですが、何回か観ていると、
アイナは、アンに自分以外の友達がいることに嫉妬していたのではないかと
アイナ、マスコットを思いっきり川に投げ捨てた後、アンに背を向けるんですよね。
アンの手からマスコットを奪い取って、叩きつけるように川にぶん投げたのも、アンの顔を見なかったのも、そういう気持ちがあったからなんじゃないかなと。
アンにはユリナという友達がいたけど、アイナにとってはアンが初めてできた友達みたいだし。

アイナは自分が嫌いなところがあるので、そういう気持ちをもってしまう自分もきっと好きではないのでしょう。
(最初にアンと出会ったとき、アンに名前を間違えられて、本当の名前である「愛菜(マナ)」を伝えなかったのも、自分が好きじゃなかったからなのではと)

アイナは基本的に明るいのですが、陰があるところもあるし。
そう考えるとアイナが一層愛おしい存在に思えてきました。好きだな。

たとえ万華鏡が壊れても

マスコットと魔法の万華鏡が対比されているのもよかったと思います。
ナツミのグループでは友情の証のマスコットが無くなれば友達じゃ無くなるけど、アンとアイナは、万華鏡が壊れてしまっても友達なんです。
会えるんです。

モノなんかじゃないんですよね。永遠の友の誓いは。
前掲『星の王子さま』には、「本当に大切なものは、目には見えない。」という一節が出てくるんですが、まさしく。
魔法の万華鏡が壊れても、ふたりで撮ったプリクラが失くなっても、
信じれば、また会える。

8月31日、夜の学校に行く前、カーブミラーの前でアンがアイナを待っているシーン。
アイナが来たとき、アンは驚いて立ち止まる。
アイナは先に行って、「アン、はやく」と呼ぶ。

アンが立ち止まったのは、万華鏡が壊れていて、本当にアイナが来るとは思ってなかったんだろう。
このときのアンの気持ちって願いみたいなものだったんだろうなぁ。

万華鏡の魔法は、信じればまた会える、という魔法。

実際、アンの前からアイナが消えるときがあるのですが、
これは、アンがアイナの存在を信じられなくなったときなんですよね。
1回目は万華鏡が壊れたとき、2回目は8月31日の夜が終わってしまったとき。

でも、信じればまた会えるんです。ラストシーンも、ね。

アイナが、教室の水槽でひとりぼっちの金魚に、仲間を見せてあげるために図書館で借りた図鑑を水槽の前に広げるところもいいですね。
教室に入れなかったアイナが、このときは教室に入れたという。

逃げるの

アンは最後、9月1日の日、学校から逃げる。
一匹の金魚と一緒に。
そして、ひとりぼっちのアイナを助けに行く。
赤い水筒に金魚を入れて、赤い自転車で、赤い橋の下で、
金魚を川に放して青空を見上げる画が、綺麗だったなぁ。

アンとユリナ

ユリナ(ユリちゃん)は、アン(絢ちゃん)が小学校の頃仲のよかった友達です。
今では無視されるようになりましたが。
教室でふたりだけになる機会があって、ふたりで図書館に行くことになり、その帰りのシーン。
ユリナは「本当は絢ちゃんといるのが一番落ち着く。なのに…ごめんね」と言う。
都合が良いですよね。ナツミやナオの前では無視するのに。
こういうのあったなぁ。小学校から中学校になると、別の小学校から来た子とかも入ってきて、関係が変わっちゃうんだよね。
学校はホント窮屈で息苦しい、、
ユリナ、「私たち、前みたいに友達に戻れるかな?」なんて。ずるいよ。アンを傷つけているのに。

TAMA版では、↑のシーンの直後に、ナツミ・ナオ・ユリナがお揃いのクマのキーホルダーを付けているのを見て、アンが呆然と立ち尽くすシーンがあるのですが、ムーラボ版からはこのシーンはもっと前の方に配置されていたような気がします。
TAMA版のほうが、アンの絶望感が際立つことになり、作品的には良いなぁと思ったのですが(その分アイナの存在が救いとして輝くので)、監督は、今ひとりぼっちの中高生が見たら辛いシーンはカットしたとのことなので、これも酷だろうということで編集したのかも。

ユリナはひどいしズルいけど。
それでも、ユリナはアンのことをまだ気にしている。
良い子なんですよね。最後まで金魚のお墓にお花を供えているし。ひとりだけ。
ナツミとナオに本当は馴染めず、おどおどした感じとか、「ザ・作り笑い」をするところが好きです。

劇場の入場者特典だったステッカーをつなげると、
ナツミ・ナオはカメラを見ているけど、ユリナはアン(とアイナ)の方を見ているように見える感じがして、好き。

いつかきっと

アンとアイナはきっともう大丈夫、と思えるラストでしたが、ユリちゃんは心配ですね。
彼女はこれから、本当の友達ができずに、一生心に傷を抱えて生きることになるのではないかと。
ユリナは確かにズルいんだけど、それでもアンのことを気にかけてるし、優しい子だし。
絢ちゃんはユリちゃんを許せる日が来るのか。
絢ちゃんとユリちゃんが友達に戻れる日は来るのか。

そんなことを考えていたら、ユリナ役の丸本凛さんが、舞台挨拶で「ユリナも、ちょっとずつ自分自身で物事を選んでいって、自分に自信を持てるように変わっていくんじゃないか」というようなことを言っていて、ユリナは救われた気がする。

最後にアンが学校から逃げるとき、ユリナはナツミ・ナオと一緒に廊下を歩いていて、アンとすれ違うのだけど、その後、何かを感じて、ナツミ・ナオを一瞥もせず、アンを追いかける。
普段ナツミ・ナオに逆らえないのに、あのシーンでは、自分の意志でナツミ・ナオを振り切って逆方向に走り出し、アンを追いかける。

そうだ。
アンもアイナも、そしてユリちゃんも、きっとそこまで弱くないのだろう。
ユリちゃんだって、自分の意志で、自分の力で、変わっていく。
この少しの間にも確かに変わっている。
それを信じたいね。

ちなみに、ユリナ役の丸本さんも、ムーラボのケイズシネマ上映舞台挨拶では緊張であまり話せてない感じだったんですが、後のアップリンク吉祥寺での舞台挨拶では、自分のコメントとかできるようになっていて、このわずかな間でも成長しているんだなと思いました。
役者とはいえまだ高校生だもん、あんな大勢の知らない大人の前で話すの緊張するよね。
若さは無限の可能性。

アンがマスコットの無いキーホルダーを付け続けている意味

アンは、物語の最後まで、ユリナに背を向けて学校から逃げる瞬間にも、マスコットの無くなったキーホルダー部分だけを、バッグに付けているんですよね。
これは、アンはまだユリちゃんのことを想っているんだと思う。
傷つけられても、無視されても、仲良く遊んだ小学校時代のことは覚えているんじゃないかな。
まだ、ユリちゃんといたときの、胸のあたたかさは残っているんじゃないかな。
だから、失くしたクマのキーホルダーを鶴亀商店でずっと見ている。
だから、マスコットの無くなったキーホルダーをバッグに付け続けている。

マスコットを捨てたのはアイナであってアンではない。
ふたりは同じ人間じゃない。
アンもああ見えてしっかり自分を持っているし(佐田に「私は、嫌いです」と言うところなど)、たとえアイナが相手でも、自分の気持ちに嘘ついたりしないと思う。

きっと、ユリちゃんも自分の力で乗り越えて、またふたりは本当の友達に戻れる。いつかきっと。
私はそう信じている。

監督も言っていたけど、ユリちゃんのスピンオフ・アナザーストーリーは観たいですね。
個人的には、アン・アイナ・ユリちゃんの三角関係、アンを取り合うふたりも見てみたいです(笑)
アンはきっと、少し照れながら笑っているはず。

ナツミとナオ

いじめっ子というか、アンをハブっているふたり。
このふたりはちょっと嫌な役なんだけど、これが物語のリアリティをグッと上げている。
強気さと陰湿さを併せ持った、バスケ部の女子中学生。←それな!
そうバスケ部なんですよ。こういうのは。
私は、中学のときのバスケ部の女子たちは全員不幸になっててくれないかな~と今でも思ったりします。
私だけじゃなくて、学生時代友達いなかった芸人であるサスペンダーズの古川さんも、ラジオで「バスケ部の女子って、気も強いけど、なんかこう…陰湿さもあるよね。わかる?この感じ」と言っていたので、バスケ部の女子のあの感じは共通認識としてけっこうあるのかなと思います。
もちろん真面目にバスケやってる女子中学生もいると思いますが。

いじめっ子として描くと、いささか記号的になるので、こういう絶妙な具合で良かったと思います。
パイロット版では、ナツミは叫び声を上げながら机を蹴っ飛ばしていますが(笑)

(パイロット版の物語はそれはそれで観たい)

この映画は、スマホとかケータイとか出てこなくて、時代設定がいつだかわからなくなっているのだけど、ナツミとナオだけ、「イケメン」「それな」「陰キャ」とか、現代のネット用語、若者言葉を使うんですよね。
それがまた、ナツミとナオの浅い部分だったり、ナオにはそこまで積極的な悪意はないけど、そこには確かに悪意があるみたいな部分が出ていてよいかなと。

何でも屋のババ

鶴亀屋という町の商店。何でも置いてある、昔ながらの雑貨商店という感じのお店。昭和レトロな感じで好きでした。
そのお店の主人であるババ。

アンは、失くしたキーホルダーを見るためだけに、何も買わずに店に来るのですが、ババは「またあんたか。買わないなら帰っとくれ」と悪態をつきながらも、アンの顔を覚えているし、気にかけている。
そして、アンに魔法の万華鏡を渡す。

ババの役は、学校という狭い世界の外には、気にかけてくれる大人もいるのだと、そういうのを表現していると思った。
「数十年前にも、それを渡した女の子がいる」
アイナのこともちゃんと覚えてるようだったし。

学校でも家でも喋らないアンが、最初にはっきり喋るのは、「友達なのかどうかもうわかんないです」とババに言ったとき。
それを聞いたババは、アンの言葉に応えるように万華鏡をくれる。
伝えるのは怖いことだけど、勇気を出して誰かに伝えればきっと応えてくれる人もいる。
そういうことなんじゃないかと思った。

アンが「万華鏡、壊れちゃいました」とババに言ったとき、「そうかい」と興味がなさそうに返したのも、ババも「本当のこと」がわかっている人間なんだなと。
万華鏡が壊れてもアイナには会えるってことを。
アンがそれを信じて、生きてさえいれば。

佐田

アンが行く図書館で働く、図書館司書の佐田。
佐田も、アンのことを気にかけている大人のひとりとして描かれている。
そして彼女は、佐田愛菜であり、大人になったアイナその人である。

「きみ」「なんちゃって」というアイナの口調や、サイダーをしゅわっとさせて笑うところなど、アイナの面影が残っている。

ひとりぼっちで、9月1日になったら学校の屋上から飛び降りると決めていたアイナ。
青空が嫌いで、嫌な天気と言っていたアイナ。

そのアイナが、大人になって、まっすぐ前を向いて、好きな本の仕事をして元気に生きている。
青空を良い天気と言えるようになっている。
何回見ても、この部分は泣く。
今もこれ書きながら泣いてる。

佐田は大人のアイナであり、万華鏡とプリクラをずっと大事にしていたが、モノがなくてもアンに会えることをもうわかっているので(銀河鉄道の夜の話から)、最後、万華鏡とプリクラをアンに託したのだろう。

アンはまだ、万華鏡とプリクラを必要としているし、
中学生のアイナもきっと、それが必要だから。

佐田は職場の人に恵まれて生き生きと働いている様子が描かれているけど、
そう、学校より会社の方が全然マシなのよ。
学校よりは、絶対マシだから。
学校よりは、自由があるから。
だから、今の中高生には、大人になることを過剰に恐れないでほしい。
別に会社員にならなくたっていいしね。
監督みたいに、映画を撮ったり絵を描いて生きていったっていいんだし。
これから無限の可能性がある。

学校なんてちっぽけな社会
外の世界には楽しいことがあるぜ
今はひとりぼっちでも、君のことをわかってくれる奴はいるぜ
大丈夫だぜ

アンの中学には、昔9月1日に屋上から飛び降りた女子生徒の幽霊が出るという噂がある。
この噂があるということは、きっと、あの9月1日でアイナがいなくなった世界もあるってことだと思った。

あのときアンがアイナを助けに行かなかったら、ババが万華鏡をくれなかったら。
ババに言った「友達なのかどうかもうわかんないです」って言葉をアンが飲み込んでしまっていたら。
ほんのちょっとのことで世界は変わる。

誰かに何かを伝えるとか、行動することって、とても勇気のいることだけど、後悔しないように生きたいと思った。

アンと家族

TAMA版か、ムーラボ版までは、アンの家族、お姉ちゃんの話があった。
吉祥寺版ではカットされた、今となっては幻の!?
(書いてはいけない感じだったら後で消します)
監督はアンとアイナの物語にしたかったから、あと、今ひとりぼっちの中高生が見たら辛くなるところはカットしたと言っていました。

家族の話は、簡単に言うと、お姉ちゃんは出来が良くて、両親もお姉ちゃんの方を可愛がっている感が全面に出ていて、アンは自分の家にも居場所がないという描写です。

私も真剣に、映画と向き合って審査員などやっているので言いますが、
家族との話はカットしないほうが作品的には良いと思いました。
なぜならば、アンは家にも居場所がないことを描くことで、アンのひとりぼっちが際立ち、アイナの存在がより、アンにとっての救いになり、アイナの存在感や存在理由の説得力が増すからです。

他方で、監督も苦渋の選択で、意志と主義を持ったうえでカットしたならば、それでよいと思います。
映画監督はみんな作品に命懸けてて、「どのシーンをカットするか」でギリギリまで頭を悩ませるものですし、役者さんに出てもらっているので、そんな簡単にカットなんてできないはずです。
元々脚本にあって撮っていて、実際にTAMA版ではあったシーンなのだから、なおさら。

それに、監督の武田かりんさんの性格から、そんな簡単にカットしたわけではないはず。
武田かりん監督、ムーラボ上映のとき、新宿ケイズシネマのスクリーンの入り口に立って、入ってくる観客ひとりひとりの目を見ながら、挨拶をしていたんですよ。
私はケイズシネマその他のミニシアターによく行っていますが、そこまで真摯な監督って中々いないので驚いた記憶があります。

この作品自体丁寧に創られているから、生半可な気持ちでカットしたんじゃないと思うな。
それならば、それもよし。
私自身、映画を観て、良い映画と思っても、不快に感じるシーンはあるし、「なんでこんな描き方したんだよ。ダメだな」と思うことがあるしね。

その他

夜に田んぼの中を走る電車が綺麗だった。
私が大学生だった頃、郊外の田んぼ地域を夜に自転車で走っていたら、暗闇の中に煌々と明かりのついた電車が止まっていて、とても綺麗だったことを思い出した。
湖に浮かぶ月みたいだって思った。
良い画だ。
銀河鉄道の夜を想起させますね。

9月1日の朝、まだ陽が出てなくて曇っているのもいいですね。
屋上でアンが呆然と空を見ているカット。
ここは曇りなんですよね。午後は晴れるけど。
9月1日の朝という、絶望感が出ている空だなと。
登下校の様子を引きで見せるところは、あぁーそうだ、こういうのだった。
これが学校だったなぁと思った。

田んぼや緑の多い川があるので、設定としては地方の公立中学かな?
ゲーセンのロケ地はあの有名な高田馬場のミカドだけど、あのレトロ感が、田舎の感じが出ていたな。
作品全体に地方、田舎の閉塞感が漂っているような感じが。

普段は、前の方の席で映画を観ることはないのだけれど、試しに最前列で観てみたら、美術までよく見えた。
屋上でアイナが食べていたのは、共親製菓『フルーツの森』というお菓子だということが判明した。
これ、食べたことないな。探しにいこう。

「食べないの?おいしいよ?」

8回見たしもうセリフもストーリーも知っているのだけど、観てると異様に落ち着く。
画がきれいってのもあるけど、全般的に音が少ないからなんだろうな。「・・・」が多い。余韻が。
居心地がよい映画だ。

この映画は、基本的にアンもアイナも泣かないし、観た人を泣かせようともしてない。泣かせようと思えばそうできたと思うけど、そういうふうには創りたくなかったんだろうなぁ。

中高生と思われる観客も見かけた。
監督が届けたい想い、届いているといいなぁ。

RCサクセションの『君が僕を知ってる』が主題歌になっているのですが、作品の世界観に合っている。
RCサクセションの音楽って、ギターが早弾きでもないし歪んでもいない、だけどロックなんですよね。ロックンロール。
この映画は、ひとりぼっちの女の子がふたりで手をつないで学校から、ブルーから逃げる話で、根底がロックンロールなのですが、雰囲気的にはクリーンなトーンが似合うので、この曲はよく似合うなと。

(あいつらに理解なんてされなくても)
君が僕を知ってる
(だからオールOK)

2か月間のアップリンク吉祥寺での上映を終えて

2023年の12月8日から続いたアップリンク吉祥寺での上映、最終日の2024年2月3日に観に行った。
この2か月、アップリンク吉祥寺に通って、計7回。
前方後方と座席を色々変えてみたり、美術まで注目してみたり、自分にとっても新たな映画体験だった。

最後の監督の舞台挨拶は泣いちゃったよ。
これから地方上映。凱旋上映を待ちながら応援してます!

2024年2月3日(土) 最終日

ポスターに監督やキャストのサインをいただきました。
最後に監督に日付を入れてもらった。上映期間の。
これを見る度、2023年12月8日から2024年2月3日までの2か月を思い出すのだ。
楽しかったな。
このポスターはここにしかない。監督だって持ってない。
集めたぜ~

我が家、B2ポスターフレーム8枚あるけど、ここは隣に全身鏡が、下にお気に入り本棚があるので、一番よく見る場所。
黒澤明「生きる」ポスターの特等席だった。
我が家でこのポジション取るの相当難しいんだぜ

エピローグ

2時間くらいで書くつもりでしたが、6時間半くらいかかりました(笑)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

この作品は、これからも自分の中で特別な作品になりそうです。
自分は高校のとき友達がいなかったというのもあるし。

それに何だか、自分の映画の見方に自信が持てたというのもあった。
元々、同じ映画を何回も観たりしないし、映画の勉強をしたわけでもないし、そこまで映画を観ているわけでもないので、私がTAMA NEW WAVEの審査員とかやっていいのかな?と思ったりもした。
や、真剣にやりましたけども。

でもこの映画を繰り返し見て、アンがマスコットの取れたキーホルダーを付け続けている理由をツイートしたら監督からコメントをもらったり、
アイナがマスコットを川に投げ捨てた直後、アンに背中を向けたときの感情を考えていたら、監督が上映後のトークで「背中で語る」みたいな話をしていたりで、あれ、私だってきちんと映画観れてるじゃんと思いました。
きちんと映画観るって何だよ、って思いますが、今年は、Twitterで「映画1000本すら観てない人は映画好きじゃない」的なこと言って炎上したおじさんがいたので…

ずっとひとりぼっちだったので、漫画とかアニメとか小説とかを総合すればけっこう観ているよな~と。
なので、何だか自信になりました。

今、ひとりぼっちの君へ

これはまぁ、蛇足ですが、世界のどこかで今ひとりぼっちの中高生が読んでくれているかもしれないので。
最初に書きましたが、私は高校時代、友達はひとりもいませんでした
学校でも軽いジャブ的ないじめというか、からかわれていたりして、辛かったです。
当時、私はアニメとか音楽とか本とかに支えられて、図書館が居場所で、なんとか卒業しました。

大人になると、自由になれます。楽しいことがあります。
学校って、ホントにホントにせまいせまい、ちっぽけな世界なんです。
なんだか暗いニュースばかりだけど、昔より良くなっていることもあります。
大人のいじめであるハラスメントについては、法改正があり、企業にハラスメント防止義務が課されるようになりました。法律で。
昔より良くなっています。確実に。

芸人さんなんかは、学生時代友達いなかった人なんてざらにいて、それを個性にして、武器にして、人を笑わせるために頑張っていたりします。

今日、君のとなりに誰もいなくても。
明日は誰かがいるかもしれない。
君がそれを信じて、生きていくならば。

それに、誰もいなくたってそれはそれでいい。
学校は極度に自由を制限する場所なので、学校の中の孤独は良いことないですが、大人は、孤独と引き換えに自由が手に入ります
お金も入ってきて、好きなことができます。
好きなときに、好きな場所に行けます。
ひとりにならなきゃ、本も読めないし、映画も観れません。

孤独だって、そんなに悪いものでもないです。
楽しそうな人の輪の中でだって、「あ~、早く帰りたいなぁ」と思っている人って、意外といるんですよ。
大人になってそれがわかりました。

だからどうか安心して、大人になってくださいね。

最後に、私の好きな歌を。
ひとりぼっちの私を支え続けてくれた曲です。

キミといるのが好きで 
あとはほとんど嫌いで
まわりの色に馴染まない
出来損ないのカメレオン

優しい歌を唄いたい
拍手は一人分でいいのさ
それはキミのことだよ

勘違いしないでね 別に悲しくはないのさ
抱き合わせなんだろう
孤独と自由はいつも

ストレンジカメレオン/the pillows

またね。

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