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変わってほしいのは「仕組み」だからこそ、中にいる「人」への言葉には配慮が必要


長時間労働やパワハラ、セクハラを黙認していた企業、団体への批判、告発はここ数年、テレビのニュースでもよく取り上げられていて、今まで被害に遭っていた人、また今まさに被害に遭っている人も、前よりは随分と声をあげやすい空気になったと思う。本当に良いことだと思うし、パワハラを受けて退職した経験のある私にとっても、嬉しい流れだ。もっと多くの職場が、安全して働ける場所になってほしい。


けれど、それと同時に、悪い仕組みを壊すために必要な批判・告発の言葉に、今現在その仕組みの中にいる人たちの一部が、傷つくことがあるのではないか、と感じている。仕組みを改善するために上げた声が、救いたい当事者であるはずの、仕組みの中にいる一部の人たちのことを、傷つけている気が、しなくもないのだ。


作家の平野啓一郎さんが提唱している個人の考え方として「分人主義」というものがある。分人主義とは、一個人であっても、その人の人格は決して一つではなく「中学時代の友人と過ごす自分」「職場の上司と接する自分」「恋人と過ごす自分」のように、少しずつ性格の違う個人、つまり複数の「分人」が一個人を構成している、という考え方である。


ブラック企業にいやいやながら勤めている人にも、「ブラック企業で働いている自分」という分人は、本人の意思とは関係なく確かにその人の中に存在している。そのため、そのブラック企業の仕組みが告発された時、働いている人すべてが企業と自分の中にある分人を切り離して、その告発を受け入れられるとは、私は思わない。自分の中の分人の一部が、批判されたと感じる人もいると思う。誰もが自分の感情を、上手に正しく整頓できるわけじゃない。


悪くて改善されるべきであるのは企業や団体の「仕組み」であって、中にいるすべての「個人」ではない。もちろんその仕組みに加担している中の人は加害者だけれど、何も知らずにその仕組みの中に入り、気付けばその仕組みの一部になっている人もいる。


その企業に新卒で入社して、他の組織を知らず、異常性に気付いていなかったら?現状が良くないと分かっていて、内側からできる限りの改善を試みている人がいたら?良くない仕組みであっても、中にいる人が何かしら思い入れを持つのは当たり前のことだ。だってその組織の中で働いている自分も、自分の一部なのだから。なのでできる限りその人たちを傷つけず、配慮して仕組みは批判する必要がある。理想論かもしれないけれど。


告発・批判をしない方がいいといった極端なことを言いたいのではなく、「仕組み」と「中にいる個人」を分けること、そしてその仕組みの最中にいる人に伝える意見こそ、最大限の配慮が必要なのでは?ということを言いたいのだ。


人の気持ちは単色ではなくグラデーションなのだから、良いか悪いか、白か黒か、0か1かで意見を作るのではなく、どの面を直した方がいいのか、何がいけないのかなど、細かく、繊細に行わなければいけない作業なのだと思う。


そして、受け手も自分が批判を受けていると感じた時、それは自分に対しての批判なのか、それとも所属する企業への批判なのか、雇用形態への批判なのかなど、その意見を噛み砕いて読み解かなければいけない時が増えていると思う。今はどのポジションにいても、探せば批判の言葉はいくらでも見つかるから。


起きている物事を分析し、適切な言葉を探して、改善のための意見を述べる。「受け手の心を傷つけない」すべての人を配慮することはできないけれど、意見を言う時の一つの観点として、この観点をとどめておきたい。










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