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自分の言葉を失った彼女が、何を話すのか


一つ言えるのは、父は私の望むことや願うことはぜんぶ否定し続けていたということです。友達関係や進学先、恋愛関係も。                                                                                     - 島本理生「ファーストラブ」より


私は以前職場の上司に、

「強い物言いはできれば止めてください。」

と伝えたことがある。

その上司は普段は穏やかで優しい人だったのだが、その時は受け持っている案件の納期が厳しく、大きな緊張とプレッシャーがのしかかっていたのだと思う。そして上司はおそらくその大きな緊張とプレッシャーが原因で、ある日チームの一人だった私に感情的な、強い口調で怒った。突然のことに驚き、その日私はパニックになり、仕事が手につかなくなってしまった。

次の日、私は上司に二人で話す時間をつくってもらい、強い口調は止めてほしいと伝えた。また同じことが起きれば仕事が手につかなくなり、結果として進捗が遅くなり、私にも上司にもメリットはない。非難したかったわけではなく、今後同じ状況になるのを避けるために伝えた。また大事にしたくなかったので、人を介さず上司にだけ伝えた。

その時上司はその場で口調が強かったかもしれない、と言って私に謝罪してくれた。

しかし後日、別の人間からその上司が

「自分は決して強い言葉を彼女(私)に使ったことはない。」

と主張していると教えられた。その時の様子を録音などしていなかったので、否定されてしまえばそれまでだ。私はあっという間に嘘つきになってしまった。

怒りや悲しみも感じたが、自分の伝え方のつたなさを反省した。自己嫌悪にも陥った。そして自分の言葉が相手に思うように届かないことに、体の力が抜けてしまったのを覚えている。

ただ、今様々な人のSNSやブログを見て思うのは、決して私の体験は珍しいものではなく、同じような経験をしたことがある人はかなり多いのではないか、ということだ。


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「ファーストラブ」は聖山還菜という、自分の言葉を否定され続け、伝えることがかなわない環境で生きていくしかなかった女性が、自分の言葉を取り戻していく物語だ。

嬉しい、悲しい、あれがしたい、怖い、好き、止めてといった彼女の率直な言葉は幼い頃から両親にことごとく否定され、やがて環菜は自分のことを嘘つきだと責めるようになり、自分の言葉を失くしてしまう。

自分の言葉を失くした人間は一体どうなるのか。何をしたいのかが分からなくなり、行動の理由が分からなくなる。その時感じた気持ちを伝える言葉を失っているため、自分の感情を無視して相手の要求を受け入れたり、願いを諦めてしまったりする。

自分の言葉を失うと、自分の思考を形成することが言葉を持っていないがためにできなくなり、人生の方針を決めることができなくなる。結果としてさまようように生きていくことになってしまうのだ。

毎日綱渡りをしているような危うさの中で環菜はなんとか生きていたが、ある日父親が殺された殺人事件の容疑者となる。しかし、彼女は自分の言葉を失っているがゆえに、真実を示す言葉を自分の力で見つけることができない。

そしてやっと、環菜は自分の話に黙って耳を傾けてくれる初めての存在、臨床心理士の真壁由紀と出会うことができる。


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耳を傾けてもらえなかった、強く伝えたかった言葉はその後どうなるのか。私は自然に消化はされず、体に残り続けると思っている。

解消されず体に残った言葉は、関心を集めるために悪口や非難を生み出したり、また聞いてもらえないかもしれないという恐怖を生み出し、嘘をつき、自分の言葉を捻じ曲げていったりすることもある。

自分の言葉を聞いてもらえなかった時、「私の話を聞いて」と相手に訴えかけても、環奈のようにかなわないこともある。それでも、諦めずに体に残った、強く伝えたかった言葉は丁寧に消化した方がいい。

誰にも耳を傾けてもらえなかった経験が、その後のその人の性格、態度、在り方に、本人が思っているよりも大きな影響を及ぼすことがあると、私は思っている。


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一度は聞いてもらえなくても、他の誰か、耳を傾けてくれる相手を探すこと。今は友人や家族だけではなく、電話相談やカウンセラーなど、話を聞く仕事に就いている人にも言葉を伝えることができる。ただ聞いてもらえるだけで、言葉は解消される。

そして、自分で自分の言葉に耳を傾けることもできる。

伝えたかった言葉を紙に書き出し自分の目で確認し、伝えたかった言葉の内容を整頓することでも、少しずつ体に残った言葉を消化することができる。伝えられなかった言葉を自分で客観的に把握できるようになれば、より良い伝え方を探せるようになる。


環菜を救うために最も必要だったのは、彼女の言葉に黙って耳を傾けてくれる存在だった。けれど、環菜は自分が自分の言葉に耳を傾けてくれる存在を欲していることを知らなかったのではないかと思う。環菜は真壁由紀に出会うまで、ただ嘘つきで悪いと自分を責め、自分は被害者ではなく加害者だという意識でいたのだから。

罪悪感がその人を救済から遠ざけてしまう。自分こそ、自分の声を一番身近で聞くことができ、自分を助けてあげられる存在なのに。


自分の話に黙って耳を傾け、誰かに受け入れてもらえた経験があるならば、その経験は記憶に残り、必ずその人の未来を助けていく。耳を傾けてくれる人は必ずどこかにいる、という確信がその人の心に残るから。

自分の正義感で相手をジャッジせず、黙って話に耳を傾けること、それが相手の救いとなる可能性があることを念頭に置いて、誰かとコミュニケーションを育んでいく。できないことでもないし、悪いことでもない。私は、そう、思っている。





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