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世の中は、甘いものでできていた

正直、わたしは飽き性だ。興味を持ったら一旦手を付けて、飽きたらやめる。そのスピードはたまにめまぐるしい、かもしれない。それでも書くことは、気付けば呼吸に等しかった。でもそれは、いつからか言いたいことをすっと飲み込んでしまう悪い癖が生んだ、わたしなりのわたしの救い方だった。だからどんなブログにも興味を示さなかったのかもしれない。「見てほしい」なんて気持ちはどこにもなかったのだから。

だから未だに、noteをはじめてもう1年も経ったことに驚きを隠せずにいる。

世の中は甘いものでできている」と言い切ってからのこの1年。ありえないくらい苦しくて、立ち直れない日々もあったけど胸を張って言おう。世の中は、甘いものでできていた。

言い切ったり、言い聞かせたり、言い訳をしたりするということはときにネガティブにはたらく。でも、その方向を180度まわすだけで、こんなにも景色は違うのだ。書くとどんどん視界がクリアになってゆく。この感覚が、たまらなく愛おしい。

起こりうるすべてへの感情は、わたしだけのものだということ。1ミリも差異なく存在しているものなんてない。それは時にさみしいけれど、だからこそ誰かとわかちあい「おなじような感情」に価値を見出だせるのだと思いたい。

1番になりたいと思う気持ちばかり先走ってやめてしまった、もしかしたらわたしの価値あるなにか。頭の中ではいつまでもメロディがながれるのに、思うように動かないピアノを弾く手。描きたいのに思い通りに生まれないイラスト。

わたしがわたしを越えていく手段が、いつまでも「書くこと」だといいと、ずっと、ずっと思っていた。

1年前のnoteを見返して不思議だったのは「恥ずかしい」と思わなかったことだった。今までどんな制作物も、手を離してしまった瞬間に自分のものじゃなくなる気がしたり、もうそれが最高の作品ではなくなったり。もっとこうしたかった、ああしたかったとばかり繰り返していた気がする。

このnoteを見て、「こんな書き方はしないな、今は」と思うことはある。それでも、恥ずかしいから消したいなどというようなことを、まったく思わなかったということ。

それはもしかしたら、あまり成長していないということかもしれないし、変わっていないということかもしれない。でも、そう、自信を持って言おう。

「飽き性のわたしが1年間noteというものを書き続けました」

フォロワーも0から。Twitterのように知り合いをフォローする文化なんてものもほとんどなく、もちろんPVなんていうものを初めて見た日には数の少なさに驚いた。それでも不思議と心地よかったのは、ちゃんとわたしの言葉が、こうして形になって存在しているということだった。

恥ずかしいnoteもあるけれど、1記事足りとも消していない。誤字修正はしたけれど、大きな変更はしていない。ありのままの1年を、こうして残すことができている。

友人はこのnoteを、わたしとつながっていられるツールだと言ってくれた。そしてたまに「ここの部分が好き」と「会いたい」をセットでくれる。あなたが?というような友人が読んでいてくれたりする。それは淡い思い出と少しずつ揺れる、昔の恋人だったりするし、好きだったひとだったりする。

数字を追うのは、大事なことだと思う。でも、そればかり気にして続かないなら見ないほうがいいし、気にしないほうがいい。ぜんぶ、嫌いになってしまった瞬間に終わってしまうから。そんなせつない終わり方を、せっかく「はじめよう」と思ったことで無駄にしてはいけない。

たくさんのひとに記事を読んでもらうためには、やっぱりフォロワーは多いほうがいいし、積極的に発信していくべきだとは思う。でも、「書きたい」気持ちよりその気持ちが勝った瞬間に、それは自分の言葉ではなくなる気がしている。無理は、絶対によくない。

アイコンは何度か変わったけれど、ヘッダーは変わらなかったように。そう、自分は変わっていくけれど、だれかがくれたものは変わらない。だれかが、自分のなかに残していってくれたものって絶対に変わらない。だからわたしはいつも「だれかがおいていったなにか」をこうしてnoteに綴っている。

「変化」と「不変」について、ずっと考えている。両方混在するのがほとんどで、その境目などなかったりする。すべて白黒はっきりつけたい、なんて言っていた自分はどこへ行ったのだろう。グラデーションが好きだ。溶けていくカフェラテを眺めながら、上下で味の違うそれを飲むことだって大好きだ。

書くことほど、わたしにとってグラデーションなものはない。過去と未来と現在を彷徨いながら、いつまでもゆらゆらしている。書く時間は明確にその中に存在して、だからこそ不安定のなかに「絶対的安心」を生む。

想像できることはちゃんと現実になり得る。物語がいつまでもわたしの中で止まらないから、いつまでも書くと思う。すこし外に出るだけで、飽きずにだれかの物語を勝手にすすめて。そして「空はいつまでも遠く、うつくしい」なんてことを懲りずに今日も思っている。

そう、1年前と変わらず言いたいことは、世の中は、甘いものでできているということ。というより、甘いものを糧に頑張れる強さって、とっても素敵じゃない?ということかもしれない。

だって、世界はやさしいから。
心を閉ざしたまま飛び込んだって、遅いのだ。いやなことがあって、だれかに心を閉ざしてしまったとしても。目の前の景色から、逃げてはいけない。

無謀なことをしているな、とたまに思う。そしてその度にどうしようもない不安が襲う夜だってある。

でも、それでいい。恐怖も知らず、大きくなんてなりたくない。待っててね、まだ知らないなにか。もうすぐ行くね、出会うべくして出会うひとたち。扉の前まで必死に走るから、足音が聞こえたら迎えてほしい。待っててね、未来。

読んでくださってありがとうございます。今日もあたらしい物語を探しに行きます。